りは☆びり

労働で破壊された脳のリハビリです

24-4

更新忘れ男。土日にらき☆すた一挙放送がニコ生でやっていて、それを見ながら穏やかに休日を過ごしていた。そしたらブログ忘れてた。
らき☆すたを見ながら、らき☆すたのエロ同人を進めていた。絵について、まだまだ無限に至らないところがあるので模写を継続するべきなんだけど、雑魚が言いがちな「はやく実戦に参加させてくれよ~」という逸る気持ちや、実際に自分で漫画を描いてみないと気づかないところもあるという素朴な実感から、拙いながらも漫画を描き進めている。でもやっぱり下手で、「お、これはけっこういい感じに描けたんじゃないか」という絵が偶発的に生まれることはあっても、その再現が全然できない。むしろその成功体験に振り回されて、ああでもないこうでもないと小さいところでぐるぐる回ってしまい、上達しないループにハマってしまっているような感覚にもなる。しかし、とりあえず7ページという短い構成でネームを作ってはいるので、習作としてまずは完成を目指したい。並行して模写とかもやったほうがもちろん良いんだろうけど、労働で心が擦り減りつつあるせいで、そこまでは手が回らないかも…。悔しいぜ。

秒速5センチメートルの、終盤にある貴樹のモノローグを覚えようと思っている。一回ここでも暗唱チャレンジしてみるね。

この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその想いがどこから湧いてくるのかも分からず、僕はただ働き続け、気付けば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。そしてある朝、かつてあれほどまでに切実で真剣だった想いがきれいに失われいることに僕は気づき、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。

これね。結構合ってるな。「どこから湧いてくるのかも分からず”に”」と「”真剣”で”切実”だった想い」の2箇所ミス。
このシーンにいたるまで、貴樹は初恋の相手と離れ離れになり、まだその影を追ってしまう虚しさや、かつての日々には戻れないことを嘆くようなモノローグを繰り返しているわけだけど、ここに至って、いきなり「会社を辞めた」という具体的で現実的なアクションが登場してくる。第一章・桜花抄で描かれた、果てしなく広がる雪原のような途方もなく空虚さや不安感がいきなりきゅっと現実世界に引き戻されミクロな感じになる。「さんざん色々言ってたけど、これ仕事やめる言い訳だったの!?」みたいな、もちろん貴樹本人はそんなつもりないんだろうが、話を聞き続けていた身としてはあまりにも着地点がこじんまりしていて、肩透かしを食ったような気がして思わず笑ってしまう。たぶん仕事辞めても意味ないよって。でも貴樹としては仕事で誤魔化してたつもりの感情が、とうとう誤魔化しきれなくなったから、もっと強い麻酔を求めたということだろう。とはいえ小学校時代には無限に広がっていたように思えた未来に対して、辞職というミニマムな決断でふんぎりをつけるというのは、実に皮肉が効いている。なんだかんだ名作だな…。

映画と言えば、今週は2本観た。『窓際のトットちゃん』と『南極料理人』。
トットちゃん」は、まず結構エロかったね。顔はなんかジョーカーみたいに口が真っ赤だったり、泣き顔がWUGのオタクみたいで不細工だったりしたけど、足回りの動きがかなり蠱惑的でした。作画にロリコンおるやろ。原作は読んでいないが、話はまあ、そこまで驚きもなく…。ただ戦争や友人の小児麻痺、祭の出店で売られるひよこなど、さまざまな形で少女が「死」に触れるというのは”Tod”ちゃんの名に恥じぬ内容だった。気になった点は、トットちゃんは作中で小1から小5へと成長していくんだが、子役が声を当てているせいで全然声色が変わっていないこと。最初のほうはイメージと合っていたんだけどね。やっぱ小児の5年間はデカいので、そこは演技に変化が付けれるべきだったかなと。あと、3回ほど、子供の空想を視覚化するようなシーンが挟まれて、それで子供の発想の自由さ・豊かさを表現するシーンがあるんだけど、あれはまるっきりのフェイクでいただけなかった。子供は無知で合理性に欠けるだけであり、奇抜さこそはあるかもしれにあが、発想自体に豊かさはない。大人に与えられたおもちゃ箱以上のイメージは浮かばないし、もっと漠然とした、なんだか楽しいだけの気分が広がっているんじゃないか。
南極料理人』は大好きな映画で、なんだかんだ10回目ぐらいかもしれない。8人組の越冬隊のなかには、志をもって観測に来た者もいれば、会社の辞令によって整備のために派遣されただけの者もいる。そこには途方もないギャップがあるけど、彼らは大人だし、共同生活を送らないと共倒れなので、うまい具合に誤魔化しながら生活をする。南極の極寒や極夜に狂わないように、美味しいご飯を食べて、麻雀や野球などの娯楽に励む。究極的には、生瀬勝久が言うように「別に飯食いに南極来てるわけじゃない」んだけど、そうしないと狂っちゃうから、形式的であっても楽しみ、笑い合う。この誤魔化して楽しい気分になりながら(楽しい気分で誤魔化しながら、ではない)、なんとか消化試合をこなす感じは、まさに人生そのものである。別に飯を食うために、気晴らしで麻雀するために生まれてきたわけじゃないけど、飯を食えば美味しいし、麻雀をすれば楽しくなる。そういう誤魔化しの楽しさを覚えていくのが大人になることの魅力であり、堕落なんだろうなと思わせてくれる。
以上!