りは☆びり

労働で破壊された脳のリハビリです

24-5,6

サボっちゃった。まあそろそろ新年の抱負とかダレる時期だよな。
かくいう俺も今年はパチンコ打たない!という誓いを1月半ばで破って6万円負けてる。ダセ~。
先々週は一本も映画を観なかった。でも久々にペンタブに電源を入れて、エロ同人をちょっと進めた。こっちのほうが偉い。映画なんてものは、2,3時間座ってるだけでちょっと偉そうに語れる程度のコスパがいい大衆娯楽に過ぎない。鼻持ちならない文化だよな。あと、久喜市で開催された『らき☆すた』のオーケストラコンサートに行った。正直期待してなかった。どうせガラガラだろうし古参ファンとして行ったるか、みたいな根性で参加したんだけど、思いのほか凄く良い体験に思えて仕方がない。オーケストラ向けに各曲がアレンジされてるのはもちろん、演奏順の構成とかも気が利いてて、なんだかかなり楽しかった。「らっきー☆ちゃんねる」のテーマから勢いよく開幕して、その時点ですでに気分がかなり高揚した。あと京アニお得意の泣かせ回「ここにある彼方」で流れる「かなたのテーマ」は、管弦楽の演奏だと尚更エモーショナルになる。中盤のトランペットソロとか、大サビのストリングスが流れたときは頭皮の毛穴がぶわわっと開くような、鳥肌が立つ感覚に襲われた。露骨な泣かせにしてやられる感じがどうにも悔しいけど、いやで良かったよ。演奏が収録されたCDとか出ないのかな。
先週は『哀れなるものたち』を観た。結構面白かったけど、劇場でなければ途中で再生を5,6回止めてたかもしれない。でもストリーミング全盛期の今は、むしろそういう視聴を強制し続ける場と言うのが劇場の役割であり、ストリーミングでは途中で投げ出しかねないような作品こそが映画には求められているのかもしれない。消費形態によって、要請される表現形態も変わるよね。ビリー・アイリッシュのBad guyがめちゃくちゃ流行ったのも、ヘッドフォンで音楽を聴く習慣が広まったから、ああいう囁くような歌い方がちゃんとウケたみたいな話。たぶん映画や漫画もそうなんだろうな。『哀れなるものたち』は『フランケンシュタイン』の変奏みたいな話で、それはマッドサイエンティストの博士が人工的に新たな命を作ったという単純なテーマの共通だけはない。登場する博士の「ゴドウィン」という名前が、『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリーの父親と同じであるように、随所にリスペクトをしている意図が見られるし、なによりフェミニズム的な性格を両社に共通して見出すことができる気がする。新しい命を生むということ、フランケンシュタイン博士が名もなき怪物を生み出したこと、また奇妙にも化け物もフランケンシュタインという名を一般的には背負ったこと、『哀れなるものたち』で、妊婦が子供を胎内に宿すこと、そのまま入水自殺した彼女の死体をゴドウィン博士が拾って、死体の頭部に胎児の脳を移植したこと。ゴドウィンの作った(?)新たな命は美しい女性の姿のままで、フランケンシュタイン博士の怪物と対照になるように、「Bella(美しい)」という名前を背負う。ベラは極めて普通の少女のように成長し、性的快楽を知り、セックスに明け暮れ、やがて飽きて、観念的な話題に関心を覚え、自身の肉体の所有権を持つことを認識し、そして当然の権利として売春する。人工的に作られた化け物としての業をほとんど背負わず、ただの女として、人間として生を享受し、自分の好きな人たちと穏やかに過ごす。それが、哀れなるものたち、というらしい。一種の人造人間だったはずの彼女は、醜くもなく、人ならざるものでもなく、ただ小賢しく残酷な人間へと成長しており、フランケンシュタインの怪物のように自分たちから切り離すことはできない。かなり凡庸な言い回しであるが、まさにベラは鏡のようにして、観客に「哀れなるものたち」の姿を映しているのであろう。あ、あと映像表現がなんか不思議で、ピンホールからこっそり撮影しているような画面だったり、旅先の景色がAIで生成されたみたいな不気味さがあったりと、視覚的にも面白かった。旅に出るまでがずっとモノクロで、ベラが旅を通じて世界を知るようになってからはカラー映像になるのはちょっと単純な気もするけど。
あとは…、相変わらず労働は嫌だねぇ。通勤のときはずっとサブスクでらき☆すたの劇伴やキャラソンを聴いて心を慰めているけど、この楽曲が労働と結びつけられるようになったら嫌だなと思ってる。
以上!