りは☆びり

労働で破壊された脳のリハビリです

24-7

日曜の夜に書いていて偉い!それだけで偉い。
平日の記憶があまりない。起きて、会社行きたくね~ってだらだらして、結局出社して、帰って、寝て…。
月曜が祝日で4日労働の週なのに、軽かったという感覚はない。むしろタスクが徐々に増えてきたり、仕事終わりに食事イベントが発生したり、むしろ慌ただしい感じがする。酒の席では、今にいたるまで変な回り道をしまくってるので、なんか年次が後輩の人含めて慇懃過ぎない感じの敬語を使い続けていた。年次とかが明らかになった途端に口調変わるのはなんかダサいし…。本当は全年齢にタメ口を使えると楽なんだけどな。大学時代は語録を使ってシームレスにタメ口に移行できてよかったなぁ。なんなら後輩からはタメ口使われたほうが嬉しい性質なので。
休日は…土曜は東京駅に行ったら、水素を燃料にしてる無料バスがあったから試しに乗ってみた。とはいえ乗り心地とかに差がある訳でもないから、特別な感想はなかった。事故ったら爆発すんのかなとか思ったけど、それはガソリン燃料車でも変わらないしな…。竹芝にある複合施設前で降りた。山手線の内側で生まれ育ったけど、南側を全然知らないので、竹芝に来たのも多分初めてだ。劇団四季の劇場とか入ってるんですね。アナ雪のミュージカルがあるようで、女児が沢山いた。その後は水上バスで両国まで隅田川を遡って帰った。隅田川って汚いイメージあるけど、近くで見ても水がなんか油っぽい光り方をしていて、なんか不潔感があった。
日曜は北野映画を2本観た。HANA-BI菊次郎の夏。中期作品でも特に有名な2作。HANA-BIは、それなりに面白かったけど、個人的にはソナチネのほうが好きだった。こっちも結局自殺するんだけど、結構生きることにおけるペーソスや侘しさを押し出している感じがして、俺がまだ成熟しきってないからかピンと来ない感じもあった。キッズ・リターンしかり、バイク事故の影響からか少しウェットになった感じもある。刑事役だったり、名前が西だったり、同僚が殉職したり再起不能な深手を負ったりと、序盤の感じは『その男、凶暴につき』のセルフオマージュ感もある。まあ「その男」は筋書きがだいぶシンプルだったのに対して、こっちはもう少し複雑だが…。ヤクザにもなるし。序盤は刑事時代の回想とヤクザの現在が混ざって描かれるが、北野作品は今までこういう時系列をいじくったシナリオがなかったので、最初「一人二役だったり…?」と混乱した。犯人を銃殺しちゃったせいで刑事をクビになってヤクザに転身した後、病に侵された嫁を含めて、自分の人生がいずれ崩壊することを悟った西は銀行強盗をする。盗難車にペンキを塗ってパトカーに偽装して、警官姿で銀行へ赴き、窓口で銃を出して金を奪うという一連の流れを、恐ろしいほど淡々とこなす。大きなことを企てるときの高揚や、失敗したらどうしようという緊張もなく、あっさりと銀行強盗を完遂して、荷物を纏めていた妻を拾い上げて逃避行の旅に出る。『ソナチネ』と違うのは、諦観しつつも、どこか生き汚く、いずれすべてが崩壊することを知りながら最後まで目を背けて生にしがみつこうとするところだった。妻がいることもあって、人間味が表れるシーンも多く、暴力的ながら底知れぬ恐怖みたいなものはそこまで強くない。まっとうに「無敵の人」というか。あと、絵にハマっていた時期なのか、たけしの描いた絵がめっちゃ出てくる。背景セットだけじゃなくて、深層心理を暗示するように画面全部にどーんと出すことあり、こういう目に見える事実以外の、象徴的なイメージを見せるのも今までになかった気がする。
菊次郎の夏』はコメディ映画で、ジャック・タチの『僕のおじさんの休暇』やローワン・アトキンソンの『Mr.Bean』(特に映画版)と同じ系譜にある、いわゆる「変なおじさん」、社会的に外れているが少年めいた純粋さを持つオッサンが動き回る様を楽しく観るジャンルだった。母親に会いに行く往路は特にそんな感じだったが、復路は井出らっきょとグレート義太夫に体を張らせまくったり、たけしのバラエティ番組的な側面も大きかった。1999年製作ということで、CGの粗さがプレステの「どこでもいっしょ」や「ぼくのなつやすみ」っぽく、そういうノスタルジーをくすぐる感じもあった。よく分からないおじさんとひと夏の大冒険(競輪、キャバクラ、ヒッチハイク…)を過ごし、そういえば旅が終わるまでおじさんの名前は聞いていなかった(「菊次郎だよ、バカヤロー!」)というのは、どうにも大人に遠慮しちゃう感じがリアルで気が利いていた。あと、子役が可愛らしくなかったのも良かった。神木隆之介みたいな感じだったら最初から愛らしくて、面倒な子守りって感じもしないだろうし、最後たけしの内に情が湧いて抱きしめてやるシーンの梃子の力も弱くなってしまう。可愛けりゃいいってもんじゃないんだぞ。ガキなんて本当はバカで小汚くて憎たらしいもんなんだから。あと、なんか淫夢MADみたいな謎の演出はチープで、それこそ2000年前後という感じがして、良いもんでもないけど一種の趣があった。謎のダンスしたり、コスプレ姿で星座になったり。
あ!もう30分だ。ほなまた

24-5,6

サボっちゃった。まあそろそろ新年の抱負とかダレる時期だよな。
かくいう俺も今年はパチンコ打たない!という誓いを1月半ばで破って6万円負けてる。ダセ~。
先々週は一本も映画を観なかった。でも久々にペンタブに電源を入れて、エロ同人をちょっと進めた。こっちのほうが偉い。映画なんてものは、2,3時間座ってるだけでちょっと偉そうに語れる程度のコスパがいい大衆娯楽に過ぎない。鼻持ちならない文化だよな。あと、久喜市で開催された『らき☆すた』のオーケストラコンサートに行った。正直期待してなかった。どうせガラガラだろうし古参ファンとして行ったるか、みたいな根性で参加したんだけど、思いのほか凄く良い体験に思えて仕方がない。オーケストラ向けに各曲がアレンジされてるのはもちろん、演奏順の構成とかも気が利いてて、なんだかかなり楽しかった。「らっきー☆ちゃんねる」のテーマから勢いよく開幕して、その時点ですでに気分がかなり高揚した。あと京アニお得意の泣かせ回「ここにある彼方」で流れる「かなたのテーマ」は、管弦楽の演奏だと尚更エモーショナルになる。中盤のトランペットソロとか、大サビのストリングスが流れたときは頭皮の毛穴がぶわわっと開くような、鳥肌が立つ感覚に襲われた。露骨な泣かせにしてやられる感じがどうにも悔しいけど、いやで良かったよ。演奏が収録されたCDとか出ないのかな。
先週は『哀れなるものたち』を観た。結構面白かったけど、劇場でなければ途中で再生を5,6回止めてたかもしれない。でもストリーミング全盛期の今は、むしろそういう視聴を強制し続ける場と言うのが劇場の役割であり、ストリーミングでは途中で投げ出しかねないような作品こそが映画には求められているのかもしれない。消費形態によって、要請される表現形態も変わるよね。ビリー・アイリッシュのBad guyがめちゃくちゃ流行ったのも、ヘッドフォンで音楽を聴く習慣が広まったから、ああいう囁くような歌い方がちゃんとウケたみたいな話。たぶん映画や漫画もそうなんだろうな。『哀れなるものたち』は『フランケンシュタイン』の変奏みたいな話で、それはマッドサイエンティストの博士が人工的に新たな命を作ったという単純なテーマの共通だけはない。登場する博士の「ゴドウィン」という名前が、『フランケンシュタイン』の著者メアリー・シェリーの父親と同じであるように、随所にリスペクトをしている意図が見られるし、なによりフェミニズム的な性格を両社に共通して見出すことができる気がする。新しい命を生むということ、フランケンシュタイン博士が名もなき怪物を生み出したこと、また奇妙にも化け物もフランケンシュタインという名を一般的には背負ったこと、『哀れなるものたち』で、妊婦が子供を胎内に宿すこと、そのまま入水自殺した彼女の死体をゴドウィン博士が拾って、死体の頭部に胎児の脳を移植したこと。ゴドウィンの作った(?)新たな命は美しい女性の姿のままで、フランケンシュタイン博士の怪物と対照になるように、「Bella(美しい)」という名前を背負う。ベラは極めて普通の少女のように成長し、性的快楽を知り、セックスに明け暮れ、やがて飽きて、観念的な話題に関心を覚え、自身の肉体の所有権を持つことを認識し、そして当然の権利として売春する。人工的に作られた化け物としての業をほとんど背負わず、ただの女として、人間として生を享受し、自分の好きな人たちと穏やかに過ごす。それが、哀れなるものたち、というらしい。一種の人造人間だったはずの彼女は、醜くもなく、人ならざるものでもなく、ただ小賢しく残酷な人間へと成長しており、フランケンシュタインの怪物のように自分たちから切り離すことはできない。かなり凡庸な言い回しであるが、まさにベラは鏡のようにして、観客に「哀れなるものたち」の姿を映しているのであろう。あ、あと映像表現がなんか不思議で、ピンホールからこっそり撮影しているような画面だったり、旅先の景色がAIで生成されたみたいな不気味さがあったりと、視覚的にも面白かった。旅に出るまでがずっとモノクロで、ベラが旅を通じて世界を知るようになってからはカラー映像になるのはちょっと単純な気もするけど。
あとは…、相変わらず労働は嫌だねぇ。通勤のときはずっとサブスクでらき☆すたの劇伴やキャラソンを聴いて心を慰めているけど、この楽曲が労働と結びつけられるようになったら嫌だなと思ってる。
以上!

24-4

更新忘れ男。土日にらき☆すた一挙放送がニコ生でやっていて、それを見ながら穏やかに休日を過ごしていた。そしたらブログ忘れてた。
らき☆すたを見ながら、らき☆すたのエロ同人を進めていた。絵について、まだまだ無限に至らないところがあるので模写を継続するべきなんだけど、雑魚が言いがちな「はやく実戦に参加させてくれよ~」という逸る気持ちや、実際に自分で漫画を描いてみないと気づかないところもあるという素朴な実感から、拙いながらも漫画を描き進めている。でもやっぱり下手で、「お、これはけっこういい感じに描けたんじゃないか」という絵が偶発的に生まれることはあっても、その再現が全然できない。むしろその成功体験に振り回されて、ああでもないこうでもないと小さいところでぐるぐる回ってしまい、上達しないループにハマってしまっているような感覚にもなる。しかし、とりあえず7ページという短い構成でネームを作ってはいるので、習作としてまずは完成を目指したい。並行して模写とかもやったほうがもちろん良いんだろうけど、労働で心が擦り減りつつあるせいで、そこまでは手が回らないかも…。悔しいぜ。

秒速5センチメートルの、終盤にある貴樹のモノローグを覚えようと思っている。一回ここでも暗唱チャレンジしてみるね。

この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的ともいえるようなその想いがどこから湧いてくるのかも分からず、僕はただ働き続け、気付けば日々弾力を失っていく心がひたすら辛かった。そしてある朝、かつてあれほどまでに切実で真剣だった想いがきれいに失われいることに僕は気づき、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた。

これね。結構合ってるな。「どこから湧いてくるのかも分からず”に”」と「”真剣”で”切実”だった想い」の2箇所ミス。
このシーンにいたるまで、貴樹は初恋の相手と離れ離れになり、まだその影を追ってしまう虚しさや、かつての日々には戻れないことを嘆くようなモノローグを繰り返しているわけだけど、ここに至って、いきなり「会社を辞めた」という具体的で現実的なアクションが登場してくる。第一章・桜花抄で描かれた、果てしなく広がる雪原のような途方もなく空虚さや不安感がいきなりきゅっと現実世界に引き戻されミクロな感じになる。「さんざん色々言ってたけど、これ仕事やめる言い訳だったの!?」みたいな、もちろん貴樹本人はそんなつもりないんだろうが、話を聞き続けていた身としてはあまりにも着地点がこじんまりしていて、肩透かしを食ったような気がして思わず笑ってしまう。たぶん仕事辞めても意味ないよって。でも貴樹としては仕事で誤魔化してたつもりの感情が、とうとう誤魔化しきれなくなったから、もっと強い麻酔を求めたということだろう。とはいえ小学校時代には無限に広がっていたように思えた未来に対して、辞職というミニマムな決断でふんぎりをつけるというのは、実に皮肉が効いている。なんだかんだ名作だな…。

映画と言えば、今週は2本観た。『窓際のトットちゃん』と『南極料理人』。
トットちゃん」は、まず結構エロかったね。顔はなんかジョーカーみたいに口が真っ赤だったり、泣き顔がWUGのオタクみたいで不細工だったりしたけど、足回りの動きがかなり蠱惑的でした。作画にロリコンおるやろ。原作は読んでいないが、話はまあ、そこまで驚きもなく…。ただ戦争や友人の小児麻痺、祭の出店で売られるひよこなど、さまざまな形で少女が「死」に触れるというのは”Tod”ちゃんの名に恥じぬ内容だった。気になった点は、トットちゃんは作中で小1から小5へと成長していくんだが、子役が声を当てているせいで全然声色が変わっていないこと。最初のほうはイメージと合っていたんだけどね。やっぱ小児の5年間はデカいので、そこは演技に変化が付けれるべきだったかなと。あと、3回ほど、子供の空想を視覚化するようなシーンが挟まれて、それで子供の発想の自由さ・豊かさを表現するシーンがあるんだけど、あれはまるっきりのフェイクでいただけなかった。子供は無知で合理性に欠けるだけであり、奇抜さこそはあるかもしれにあが、発想自体に豊かさはない。大人に与えられたおもちゃ箱以上のイメージは浮かばないし、もっと漠然とした、なんだか楽しいだけの気分が広がっているんじゃないか。
南極料理人』は大好きな映画で、なんだかんだ10回目ぐらいかもしれない。8人組の越冬隊のなかには、志をもって観測に来た者もいれば、会社の辞令によって整備のために派遣されただけの者もいる。そこには途方もないギャップがあるけど、彼らは大人だし、共同生活を送らないと共倒れなので、うまい具合に誤魔化しながら生活をする。南極の極寒や極夜に狂わないように、美味しいご飯を食べて、麻雀や野球などの娯楽に励む。究極的には、生瀬勝久が言うように「別に飯食いに南極来てるわけじゃない」んだけど、そうしないと狂っちゃうから、形式的であっても楽しみ、笑い合う。この誤魔化して楽しい気分になりながら(楽しい気分で誤魔化しながら、ではない)、なんとか消化試合をこなす感じは、まさに人生そのものである。別に飯を食うために、気晴らしで麻雀するために生まれてきたわけじゃないけど、飯を食えば美味しいし、麻雀をすれば楽しくなる。そういう誤魔化しの楽しさを覚えていくのが大人になることの魅力であり、堕落なんだろうなと思わせてくれる。
以上!

24-3

3週目。労働が嫌だという気持ちが日に日に強くなっていく。
エロ同人のネームを、7ページながら作って、下描きを少ししている。久々にペンタブを起動したが、めちゃくちゃ難しい。模写をサボっていたこともあって、なんか全然上手く行かない。漫画についてケチをつけることこそ多いものの、いざ自分でやってみると難しいもんだよな。継続的な模写を再開しないとな…。
映画は3本観た。ウテナの劇場版と、トーク・トゥー・ミーと、キッズ・リターン
ウテナはTVシリーズを5、6話ぐらいで挫折したけど、アニメ見てなくても大丈夫と聞いて見てみた。舞台とか基本的な登場人物は同じだけど、設定やシナリオはアニメと別物らしい。幾原作品は体力を使うけど、まあ1時間半ぐらいなら…という気持ちで挑んだ。巨大な鐘がゴーンゴーンなったりするシーンとかはパンチあって良かった。なんか牛とか出てくるふざけたビデオを流すシーンとかは普通にイライラした。そういう変な遊び入れるから見たくなくなっちゃうんだよな。アニメではそういう設定じゃないらしいが、映画では赤髪のにいちゃんは昔すでに死んでいて、その事実を受け入れられないウテナが脳内で作り出した存在だったという展開で、なんかこういう現象って名前ついてるのかなって思った。喧嘩稼業の佐川睦夫とか。もっといい例ありそうだけど。最後にウテナが車になるのはギャグ感もあったけど、まあ疾走感はあったし、白馬の王子様を待たずに、ハンドルを握れば誰でも運転できる車に乗って、学校という鳥籠から抜け出すというのは、ちゃんとフェミニズムしてる感じもあって良かった。知らんけど。ゼロ年代アニメで育ち、学生であること自体に居心地の悪さを覚えたことがないまま育ったんで、学校は外界の危険から守ってくれる揺籃というイメージばかりで、不自由な鳥籠の印象がなかったので、なんか新鮮な感じもした。それでも俺は学生時代に戻りたいけどね。あの頃に還して…。
トーク・トゥー・ミーは、まあまあなホラー映画だった。降霊体型にはドラッグによるトリップみたいな快楽があり、若者はそれを楽しもうと、みんなでパーティーミュージックをガンガンにかけて、かわるがわる降霊体験でアへ顔を決めるのは見ていて面白かったし、大音量で観たほうが楽しいので、映画館で鑑賞したほうが良い作品かなとは思った。ただシナリオは微妙で、ホラー展開を作るために主人公が無理やり動かされている感じがあった。母親の死を受け入れられず、物語を求めているという説明もつくかもだけど、丁寧ではない。でも幻覚や幻聴の症状が出てきて、最終的に死に至る展開は、うまい具合にドラッグ啓蒙を料理したとも言える。
キッズ・リターンは、これまでのキタノ作品のなかでは好きじゃないほうかな。鑑賞に堪えるというか、「見られる」映画ではあるんだけど、なんか敢えて嫌な気持ちにさせてくる感じがして楽しめなかった。もう一回見る気は起きない。『ソナチネ』は行き場のない茫漠とした虚無感とタナトスをまざまざと見せてきて、心地よいとはいえないものの、真に迫る感じというか、胸を打つ映画体験だったと思うんだけど、こっちはなぁ…。社会の嫌な部分を単に見せられるというか、絶望感の方向性や質が違う感じがする。ふわっとした感想だけど…。なんか鬱蒼とした、密集した感じの気分の悪さなんだよな。そういう感じがソナチネと逆かも。
以上!

24-2

労働が始まった…。もう早速嫌なのじゃ…。
まだ軽いけど、徐々にタスクが増えていくような予感が確かにあるのじゃ…。
まあそれでも前の部署よりは水が合うんじゃないすかね。多分。合ってくれ。なあ。
いわゆるJTCの中でもローテクな業種なので、業務の引継ぎを受けると効率化がされていないことに度々気づく。
まあ前の部署も、平均値出すのにExcel使ってといてなぜか関数が入っていないシートがずっと引き継がれていたしな…。こっちが関数入れて共有しても全角で入力してきたし…。いまさら驚きはしない。まあいいや。

今週は映画を2本見たよ。『サンゲリア』と『イニシェリン島の精霊』。
前者はいわゆるB級ゾンビパニック。ゾンビ然りサメ然り、映画にはいわゆる定番ジャンルというものがある。特に強固な定番は、そのジャンルならとりあえず観るという客層が一定数いるわけで、無名のキャストでしょーもない脚本でも幾らか採算が見込めて、かつ演出か何かが光ればカルト的人気を得られるかもしれない。エンタメを「ジャンル買い」したことがなかったので、そういうものの勉強といった感じで見た。ラーメンでいえば、二郎系とか家系とかは強固なジャンルだよな。期待したもの通りが出てくる、具材が決まってるのでマズすぎるということはないという安心感があるので、脳死で客はふらふら入っちゃう。さらにちゃんと美味しければ繁盛するし、芹沢さんも「再建したいなら今すぐ二郎系か家系ラーメンにシフトしろ」と弱小ラーメン店に助言していたほどだ。客を愚かと断ずるのは傲慢かもしれないが、たぶん多くが怠惰であることには間違いない。どういうものが来るのか構えて、今までにない尺度のものの良し悪しを自力で評するのは疲れるし、そんなものは映画マニアやラーメンマニアに任せればよくて、大勢は見方や味わい方をある程度提示してもらって、そのうえで好悪を自分なりに付けられれば満足なのだ。『あした天気になあれ』だって、「ゴルファーの生きざまを通じてビジネスマンの仕事の向き合い方を見直すこともできるんですよ」と売り込んだほうが、単純に「電子版が出ました」と告知するより手に取りやすくなるのだ。分かりやすいジャンルの提示も、そういう客が商品を手に取る前のストレスを低減させる。で、「サングレア」だけど…、まあゾンビパニックに全然詳しくない身としては、そんなにって感じでしたね。ゴア表現が多い割には、画面が明るいので、グロい一方でそんなに怖くないというか、ドライに見られるのは新鮮な気もした。ゾンビと言えば暗い空間をイメージしていたので。あとラストのネタバレだけど、ゾンビたちが徘徊する島から命からがら抜け出してアメリカ本土に帰ろうとしたら、すでに本土もゾンビで溢れかえってたってオチはちょっと面白かったかも。そんぐらいっす。
『イニシェリン島の精霊』は、先週『ソナチネ』を見たとき話題に挙がったのを機に、ウォッチパーティーで友人たちと見た。脚本は面白いし、良作ではあるんだけど、嫌な気持ちが後に残るので映画体験としては苦しいところもあった。1920年代のアイルランドの孤島が舞台なんだけど、俯瞰して見ると、その島があまりにも狭くて辺鄙なところにあるのが諸悪の根源にも思えちゃう。元々仲のよかった老人が、ある日主人公の男に対して、「お前はつまらんから嫌いや。もう付き合わん」って決裂を言い渡すところから始まり、それを受け入れられない主人公がじたばたする話。ただ、イニシェリン島には娯楽が一軒のパブしかないので、二人がどんなに険悪になっても、結局パブで顔を見合わせる羽目になる。人口も少ないので、物理的にも関係的にも絶交にめちゃくちゃ向いてない。まあそもそも絶交しなくても良かったやんとも思える理由だし。映像美もあり、カメラワークも凝ってはいないが上手く、動物たちの表情も豊かで、作品としては優れてるんだけど…仕事を控えた日曜夜に見なくてもよかったかもしれない。しかし、それこそジャンルには「コメディ」とあった。Wikiでもブラック・コメディって説明されてる。これマジ?笑いきれないよ~。映画館かウォッチパーティーじゃなきゃ途中で観るの止めてたかも。友情に感謝やね。
あと、痛絵馬を描いて鷲宮神社に納めたよ。実績解除だね。
ほなまた。

24-1

週末30分で振り返るブログ。更新ハードルを下げていきたい。
新年第1週。映画をけっこう見た。
NHKで放送してた『リズと青い鳥』、映画館で『RRR』、自宅で北野作品初期4作の計6本。
「リズ青鳥」は公開時期に出町座で見て以来で、見たとはいってもテレビから垂れ流してるのをベッドで寝ながら横目にって感じ。女という生き物がよく分からないので、女が集まっていちゃいちゃする百合の良さもどうも分からない。焼き鳥のねぎまのように、竿役がそれぞれの間に挟まっていてくれたほうが楽しいのにと思っちゃう。男が作る百合の花園は、均衡した小宇宙のような、いわば箱庭を眺めるような楽しみがあるのは何となく分かる。それは童貞が抱いた妄想の楽園だし、俺も共犯者的にその世界観に乗っかってやることができる。問題は女性が作った場合だ。特に山田尚子監督作品はディティールに凝っているので、どこまでがリアルなのか分からず、うかつに妄想乙と片付けられない。そのくせ男にも分かるようなフェティシズムをもって、かわいさの中に色っぽさを挿し入れるので、なおのこと焦点を失って戸惑ってしまう。話としてはシンプルな映画だけど、細かい部分を丹念に描いて、しかも百合的な雰囲気であふれているので、「わから~ん」と頭を抱えたまま終わってしまった。わから~ん…
『RRR』は逆張り根性で見るつもりがなかったが、ちょっと素直になろうと思って観に行った。3時間の濃密な映画体験で絶賛されるのも頷ける一方で、モロに解放闘争の話だったので、侵略国家の生まれとしては見ていて気まずい気持ちにもなった。序盤のナートゥ踊ったり、大量の動物とともにイギリス軍を襲撃するところまでは、勢いもあってエンタメ的に楽しめた。鋼の錬金術師や、ゴールデンカムイの、大トロの部分だけを食べているような気分だったけど、INTERRRVALあたりから様相が変わる。ビームはドラクエで出てくるような棘付きの鞭で打たれて皮膚を裂かれても故郷の歌を歌い続けて民衆に訴えかけるし、ラーマは投獄されて歩行不能になるまで足を痛めつけられても懸垂で己の肉体を鍛えることを止めない。すべては解放闘争のため。ラーマの懸垂シーンで隣の観客がクスっと笑っていたが、とても笑えない凄みを感じた。そして無能で傲慢な英国軍を完膚なきまでに打倒し(これもエンタメなら有能な宿敵を出すものだが、せいぜい総督の勘とエイムが良い程度で、鬼畜英帝の見せ場はとことん排除される)、最後は、作中には出ない歴史上の革命闘争の英雄たちの巨大な顔を背景に勝利の舞を踊り続ける。「RRRサイコー!」みたいなこと言ってる日本人の何割が、日本軍をボコボコにして、安重根とかの顔を背景にチマチョゴリを着た人々が生き生きと踊る映画を笑って見れるか。まあ俺は結構笑っちゃうかもしれないけど。まあ『RRR』もイギリスでウケてるし、ここまで勢いがあると案外みんな笑っちゃうかもな。
北野映画はどれも結構面白かったが、評判通り、やっぱり『ソナチネ』が頭一つ抜けていた。というか前3作の集大成みたいなところもあった。『その男、凶暴につき』で見せた、ドライで瞬発的な暴力と、無音で凄みのある演出。『3-4x10月』の、荒唐無稽でコント的な笑いと壮絶な暴力の、シームレスな往復。『あの夏、いちばん静かな海』の削ぎ落された会話とキタノブルー。ただソナチネは終始の死の香りというか、タナトスがべっとりと貼りついた息苦しさがあり、「好きな映画といえばこれ!」と言うにはあまりにも重苦しかった。沖縄の浜辺で、北野が演じる村川達ヤクザは、ロシアンルーレットをしたり、紙相撲のマネをしたり、フリスビーを銃で撃ったり、つまらない遊びを楽しそうに笑って興じる。だけど本当は何も楽しくないし、狂わないように何かして遊ぶことで誤魔化しているにすぎない。そんな消化試合を延々と繰り返す。『南極料理人』で、雪面にかき氷のシロップでダイヤモンドを描いて、観測隊の面々が野球に興じるシーンがある。あれも勿論、野球として楽しんでいる側面もありはするだろうが、結局はレクリエーションをしないと狂ってしまうから開催しているのだ。観測隊は1年先の交代期まで耐えればいいが、極道の村川は死ぬまでその消化試合を強いられる。別に沖縄の一件が無事に片付いたところで、結局は東京で似たような状況になるだけだ。だから別に死んでもいいという気分で、だけど狂ってはいないので自殺はしない程度に、村川は遊びに銃を持ち出す。そして結局、気に入らない身内のヤクザ幹部を皆殺しにしたとこで、その茫漠とした虚無からは逃げられないと改めて悟ったとき、とうとう自分のこめかみに拳銃を突きつけ、引き金を引いた。

あ!もう30分だ。今週はほかにエロ漫画の模写をちょっとやったりしたよ。ばいば~い。

8月振り返り

 更新が遅くなることからも分かるように、だらしなく時間を過ごしていましたね…。
 運動量は落ち、読書や絵の練習もいまひとつ続いていない。体調崩したとか、それらしい言い訳はあるけど、大半は面倒くささや、そういったタスクの放置している事実から目を背けるように、さらに放置を重ねる悪癖から来ている。このブログの更新が遅れたのも、その悪癖に起因している。
 タスクなんて言ってるが、結局は自分が勝手にやっていることなので投げ出してもいいんだけど、こういうのに向き合うのも社会性だろうし、観念して書くことにします。いつも通り項目立てて行くゾ。ちょっと9月前半の話も混じってるかも。

〇健康
 8月上旬は体調を思いっきり崩した。めずらしく繁華街へ外出した数日後ぐらいから崩れたし、喉がやたら痛かったので、コロナだったかもしれない。ただ味覚は健在だったので、喉の荒れを癒すためにアイスクリームを頻繁に食べたし、そのくせ運動をしなくなったので体重は現状維持~微増の間をふらふらしていた。自炊の頻度も落ちてしまった。
 快復してからも猛暑のせいで運動不足は継続した。さらに8月末には、旅先で庭園の池に思いっきり落ちてしまい、その際に肋骨にヒビが入ったらしく、安静に過ごさざるを得なくなっている。俺はもう駄目だ。あすけんの女に毎日のようにお前はカルシウム不足だと言われていたが、その通りだったようだ。なので先日、薬局でカルシウムのサプリメントを買った。買っただけで、そこまで習慣的に飲めてはいないが。

〇読書
 じぇ~んじぇん読んでない。読書量が多ければ偉いもんでもないけど、続けて読まないと内容を忘れちゃうから勿体ないんだよな。
●ローマ人盛衰原因論
 ローマ帝国の東西分裂ぐらいまで読んだ。アウグストゥスの皇帝即位から始まる帝政ローマが弱体化していき、五賢帝時代に一度は持ち直すも、軍人皇帝が次々と生まれては露に消え分割統治へと移行し、ついには東西に分裂する。
 ローマの盛衰を指導者個人に帰属させず、ダイナミズムとして捉える本書は、カエサル暗殺は起こるべくして起こったものと述べるし、下手人のブルトゥスはありふれた愛国者であり、カエサルの跡をついだアウグストゥスは暴君であるとさえ言ってのける。そんな逆張りっぽい雰囲気から、五賢帝時代も批判するのかなと思いながら読んだら、意外と素直に肯定的な見方をしていた。
 ただ日本では比較的有名なカラカラ帝については、かなり痛烈に批判している。「カラカラは、暴君というのでなく、人類の破壊者と呼ばれるに値しよう」。大浴場を建設したことから、確かテルマエ・ロマエでも紹介されていた皇帝だ。属州民に市民権を与えたアントニヌス勅令の発布など、世界史でふわっと習う程度だとむしろ好意的な印象を抱きそうな存在だが、モンテスキューは彼を国家を弱体化させたポピュリストと断ずる。
 カラカラを始めとするポピュリスト的皇帝たちはローマ市民を堕落させた。安定したパクス=ロマーナの内実では、戦争から遠ざかったことで、勝利し支配するという精神は消失していた。戦いは、公民の務めから、卑しい剣闘士たちが行うのを観覧するものへと変容した。広大な属州から小麦が集められて配給されるので、市民は土地の耕作すら手放した。商工業はこれまた卑しい奴隷が従事するものなので、ローマ市民のすることといえば賭博と見世物ばかりになった。皇帝が絶対的な権力を握っているため、国政についても関心を持たなくなった。「パンとサーカス」と諷刺された腐敗が、ローマには蔓延していた。
 豊かになったので、平和を金で買うようになった。兵士への給料は上がる一方で、大浴場建設などの公共事業の連発と相まって、国庫はみるみる小さくなっていった。しまいには諸外国へ貢納することで平和を保とうとした。貢納のために租税は増額され続け、公民の一部は自ら蛮族のもとへ逃れるようになった。富を得た軍隊は権力を伸長させ、複数の軍団からそれぞれ皇帝候補が挙げられ、実際に皇帝へと上り詰めたが、彼らの多くは外国人や蛮族出身であった。勝利し支配することを至上命題としていたローマ人は、いつのまにか支配される側へと転落していた。ほかの統治形態を知らないので、搦手で抗することもできず、ただ支配を受け入れることしかできなかった。また外部出身の皇帝たちが母国の習俗や宗教を持ち込んではローマに受容させることを繰り返していたので、のちにキリスト教が確立されるための足掛かりにもなっていた。時折は偉大な指導者が登場して持ち直したものの、帝国は確実に弱体化していた。
 かつて商業地として隆盛し腐敗したカルタゴ共和制ローマに敗れたように、豊かになったローマ帝国は蛮族たちに屈するようになった。まさに歴史は繰り返される。モンテスキューは、ここに歴史の普遍性を見出す。「世界を支配するのは運命ではない」。そして、侵略戦争によって、その全盛期には領土拡大を進めるも、晩年には莫大な戦費調達で財政難へと陥ったルイ14世絶対王政を念頭に置きつつ、こう述べる。「あらゆる君主政国には、それを隆盛させ、維持し、あるいは没落させる、精神的もしくは物質的な一般的原因が存する。あらゆる偶然の出来事はこの一般的原因に従属している。そして、ある戦闘という偶然、すなわち、特殊な原因が国家を破滅させたとすれば、そこにはただ一度の戦闘でその国家が破滅しなければならぬ一般的原因があったといえる。」そして執筆から55年が経過した1789年、フランス王朝は革命によって打倒され、ルイ16世はギロチンの刃の露と消える。

ユートピア
 こっちは読了した。ユートピアも、架空の設定ではあるが、豊かな資源と外国貿易をもとに繫栄を築く国家である。そして、平和を金で買っている。戦争を忌避するユートピア人たちは、基本的に資金にものを言わせて傭兵を雇って防衛をしたり、友好国の戦争に助太刀をする。万が一傭兵が全滅して自国に攻め入られた際は自衛することを想定こそしているが、基本的には、自国民の血は一滴たりとも戦場に流すつもりはない。しかし帝政ローマのように腐敗はせず、荒廃することなく栄光が続いている。
 妄想と現実の差と言って片付けることもできるが、イギリスとフランスの違いと見ることもできる。つまり、島国と大陸国の差である。ユートピアは、イギリスが念頭に置かれた島国である。モアが描く理想のイギリスと言っても良い。周囲の海は岩礁ばかりで侵攻は困難であり、そもそも戦争と縁遠い地形である。奢侈を蔑視し、貴金属を卑しいものとして扱う独特の倫理観が国民の堕落や腐敗を防いでいるというが、外部から思想が流入しにくいがゆえに形成される島国根性のようなものとも言える。かたやローマは、広大な陸地の中にあり、周辺には諸外国や蛮族が数多く存在する。民族も思想も習俗も入り混じり、領土は際限なく広げることができる。不断の闘争が要求される地形にあり、その要求に応えることでローマは繁栄し、それを止めたとき衰退へと転じた。理想郷を描くにも、地政学的な差異が生まれるものだ。
 著者のトマス・モアは、ヘンリ8世治下のイギリスで大法官を務めたが、そのヘンリ8世の離婚問題を端緒に失脚し、ついには処刑された人物である。『ユートピア』は離婚騒動以前に執筆されたものであるが、その後半の内容は、結婚と貞潔の問題や、彼の宗教観が展開されており、モアを苦しめる運命を予感させる。
 ユートピアにはキリスト教が布教されていない。正確には、語り部のヒスデロイが訪問した際に伝わってはいるが、司教もいないし、広く信仰されてもいない。未知の国を描くのだから、伝道されていたらむしろ変だ。しかし異教徒の国を理想とするのも、敬虔なカトリックであるモアにとっては難しい話だ。そこで、キリスト教の教義自体は知らないけど、絶対唯一の創造主が存在していてることについて、理性に基づいて共通して信じているという、しょっぱい着地点を設置した。彼らは伝道されずとも敬虔なキリスト者であり、ひとたび教えを聞けば喜んで賛同する。なのでユートピアには特定の宗教こそないが、無神論者は認められていない。「人間の霊魂は肉体とともに亡びてしまうものであるとか、世界は摂理などによる支配を受けず、ただでたらめに動いているにすぎない」といった「思想の持ち主はすべての名誉を奪われ、すべての役目からのぞかれ、すべての国家の公職から追放される」といった徹底ぶりである。その一方で、人間の内心を強制することはできないという理由で、重刑を課すことはない。解説にもあるが、ここにトマス・モアのアンビバレントな態度が見出せる。すなわち、ルネサンスに目覚め人間の理性と良心を信頼する人文主義者としての自分と、信仰深いカトリック教徒としての自分、どちらの理想を打ち立てるべきなのか。そしてユートピアは、理性と進行を擦り合わせるように構想される。離婚についても、認められてこそいるが、理性に基づいてあらゆる判断をして、他に手段がない場合に限ると留保されている。さらに、このユートピアの話自体も、ヒスデロイという架空の語り部による見聞録として展開され、それについてモア本人は「ユートピア人の風俗や法律などの中には、必ずしもその成立の根拠が合理的とは思われない点が沢山あるように、私には感ぜられた」、「これをわれわれの国に移すとなると、ただ望むべくして期待できないものがたくさんある」と留保を上乗せしている。そういえば『ガリヴァー旅行記』で、語り部ガリヴァーが最後には狂人と化してしまったのも、思えば同様の留保だったのだろう。
 ヘンリ8世の離婚について、それこそモアは理性に基づいても認めることはできず、教皇が認めた結婚を否定をすることは信仰においても承認できなかったのだろう。カンタベリーの宗教会議が、ヘンリ8世について、教皇をも凌ぐ「最高の主」と認めると、翌日にモアは大法官を辞した。そして自らの信ずるところを貫いた果て、ヘンリ8世から報復を受けて斬首刑に処された。ユートピア古代ギリシア的な世界観だったが、この死に様もなんかソクラテスを髣髴とさせるよな。

〇漫画
 エロも一般作品も読んでねぇ…。沖縄旅行に行くに際して、『あずまんが大王』を読み返したくらい。でも面白かった。萌え四コマの元祖みたいな言われ方するけど、四コマ漫画としてちゃんと面白いんだよな。なんか触発されて、沖縄旅行のレポ漫画を四コマ形式でちょっとだけ描いてみちゃったよ。でもやっぱ描くの難しいわ。そもそも旅行で起こった事実を四コマでオチを付けつつ再現するのがハードル高い気もする。普通のコマ割りのほうがやりやすい気もするけど、そうなると照れちゃって描けないんだよな。一応のオチを付けてるから人に見せられるというか…。話すときとかもそういう意識あったりするでしょ。まあ今書いてる文にはオチはないけど…

〇映画
●『君たちはどう生きるか
 面白くは…なかった。宮崎作品で並べるなら下から数えたほうが早い。上映中そこまで時間が気にならなかったし、つまらない訳ではないけど、ジブリならもっと面白い映画を見せてくれよと思った。とはいえハウル以降そんな好きじゃないしな…。
 ジュブナイルであり、駿の命乞いでもあった。神話のように「出立」→冒険→「帰還」の流れを踏み、主人公・眞人が精神的に成長をするジブリお得意のビルドゥングス・ロマン。しかし、この冒険で「父親殺し」がなかったのがどうにも引っかかる。言い方が悪いが、結局は、駿の命乞いのように映って見えた。以降はネタバレ前提で話すぜ。
 眞人の父親・勝一は、打ち倒されるべき俗物である。妻が死ぬや否や、彼女とそっくりな顔立ちの妹と再婚して孕ませるし、疎開先の学校には、仰々しく車で息子を送って悪目立ちさせる。戦況の悪さを儲け話として悪びれずに話すし、息子がケガをして帰ってくれば正義は我にありといった面持ちで「代わりに復讐してやる」と大声を上げる。眞人にとってはすべてが抑圧であり、それが彼を「下の世界」への冒険と導く。
 「下の世界」はいわば精神世界である。現実世界からは干渉できない空間であり、現に勝一が入ろうとしたシーンでは扉から大量のインコが飛び出して彼を拒み、さらには大量の糞をお見舞いした。「下の世界」に俗物が入ることは許されない。そして、この世界を管理するのは、やはり本ばかり読んで浮世離れした大叔父である。彼は現実世界では失踪扱いだが、「下の世界」では管理者として世界の均衡を保つ役目を果たしている。「下の世界」につながる入り口は、まさに象牙の「塔」の中にあった。ここで大叔父と父親は、聖俗の対比になる。眞人が導かれるように塔へ向かったのは、俗世の汚れを拒み、無垢で神聖な精神世界へ逃げ込むためである。インコが現実世界に飛び出すや否や糞を撒き散らすのも、現実の汚さを表した描写である。では眞人は無垢な存在かというと、本人はそうだと思い込んでいるだけである。そして、自分も汚い人間であることを無意識には知っている。
 青サギは眞人の分身である。案内役として「下の世界」の旅に同行する彼は、おっさんのような醜い顔立ちで、嘘ばかりついて眞人の邪魔をする。その姿には、一見澄ましているけど、中身は醜くて嘘つきの汚い人間であるという眞人の無意識の自覚が反映されている。自分を嘘つきであると認めた終盤、彼はやっと青サギを「友達」として受け入れる。自分の醜さを認めることで、彼は醜い人間たちが犇めく現実世界へと戻る決意をする。君たちはどう生きるかといえば、己の醜さを認め、そして他人の醜さを受け入れていくしかない。それが人間であり、眞の人だと言うのだろう。眞人と青サギという名前には、二人が裏表の関係にあるという言葉遊びのような意図も感じられる。
 簡単にまとめてしまうと、世俗の汚さを目の当たりにして傷ついた少年が、冒険をして成長して、「そういうもんだ」と理解して世俗で生きていくことを選ぶ話だ。だって自分だって嘘つきだし(「この傷は自分でつけました」)。だけどやっぱり冒険に足りないところがある。「通過儀礼」である。魚の解体とかペリカンの埋葬とか多少はしてるけど、千尋の油屋での奮闘に比べるとどうも弱い。言われたことにはすぐに従うし、父親について愚痴ひとつこぼさない。基本的に会話だけで、大した通過儀礼もなく自らの醜さを認める地点にまで至ってる。どうにも物わかりが良すぎる。いきなり「夏子母さん」とか言い出したときはびっくりしちゃったよ。
 なんで眞人が通過儀礼もなく物わかり良く成長しているかといえば、結局は父親のほうは殺されたくないから、会話で済むなら済ませたいからが大きいと思う。ムスカみたいに天空の城から落とされたくないもんね。話せば分かる。まあ本作に至っては眞人は勝一とほとんど話すことなく分かっちゃったけど。「親父も色々大変だったんだな」って汲んでもらえるに越したことはない。君たちはどう生きるかといえば、人間の醜さを認めて生きていくしかないんだ。だから醜い俺を切り捨てないでくれ。そういった命乞いの声が、遺作にもなりそうな本作の中にある気がする。
 そもそも今日日「親殺し」なんて流行らないぜ、みたいな風潮もあるかもしれない。「エヴァ」でも、旧劇では初号機がゲンドウを嚙み殺したのに、新劇のシンジ君は「父の落とし前は僕が付けます」なんて大人しいセリフを決め顔で言い放ってた。でも「そういうもんだ」と物わかり良く我慢した結果の一つが、昨今話題のちんぽしゃぶられ事務所の悲劇でもあるからな。殺さないとしゃぶりつくされた挙句にとんずらこかれちゃうかもよ。長瀬智也の引退作『俺の家の話』も、思えばそんな話だった。世界的「父親殺し」小説の『カラマーゾフの兄弟』を下敷きに、能の大家で人間国宝の父親に反発し、プロレスラーへの道を選んだ長瀬演じる長男・観山寿一。家を飛び出してから25年、父の危篤を聞いて実家へと戻る。父親の死期が近いことを受けて初心に帰り、能の継承と介護を決意するホームコメディ。ネタバレを言えば、当然「カラマーゾフ」のように父親を殺すことはなく、それどころか寿一は稽古と介護と生活費のためのプロレス興行の三重生活の果てに、リング禍で落命してしまう。「そういうもんだ」と口癖のように言い続け、出戻ってからは甲斐甲斐しく働いた結果、余命一年の父親より先に死んでしまう。諷刺がきつ過ぎるだろ。そこまで尽くしても戒名には「脛齧居士」なんて付けられちゃうんだから、たまったもんじゃない。
 その点『天気の子』は偉かったよな。大人たちが滅茶苦茶にした地球環境のために陽菜さんが人柱になる必要はないって中指立てて叫んだもんな。やっぱり誠はすげぇや。

〇行ったところ
●科学博物館
特別展「海」に行った。夏休みだったので人がごった返してた。大量のイルカの骨や、シーラカンスの標本とかがあったよ。説明展示だと「ホエールポンプ」って概念が面白かった。海洋生物の移動って聞くと、つい水平方向での移動ばかりイメージしちゃうけど、哺乳類のクジラは息継ぎのために海中を垂直方向に移動する。この移動に伴って植物プランクトンが運ばれていて、それが生態系を支えているっていう循環システムなんだって。
博物館に行った後は、上野駅のフルーツパーラーで桃のパフェを食べた。なんか『1日外出録ハンチョウ』みたいな生活してんなお前な。

トキワ荘マンガミュージアム
よつばと!』原画展に行った。異常な取材量と緻密な描き込みにドン引きしちゃった。漫画の模写とかしてるせいで、以前だったら「はえ~すっごい」みたいな感想で終わるところが、「俺には無理だ…」と打ちのめされるような気持ちになった。実際この日以降、絵を描く頻度が下がった気がする。それでも四コマ描いたんだから俺偉いよ。

以上!