りは☆びり

労働で破壊された脳のリハビリです

8月振り返り

 更新が遅くなることからも分かるように、だらしなく時間を過ごしていましたね…。
 運動量は落ち、読書や絵の練習もいまひとつ続いていない。体調崩したとか、それらしい言い訳はあるけど、大半は面倒くささや、そういったタスクの放置している事実から目を背けるように、さらに放置を重ねる悪癖から来ている。このブログの更新が遅れたのも、その悪癖に起因している。
 タスクなんて言ってるが、結局は自分が勝手にやっていることなので投げ出してもいいんだけど、こういうのに向き合うのも社会性だろうし、観念して書くことにします。いつも通り項目立てて行くゾ。ちょっと9月前半の話も混じってるかも。

〇健康
 8月上旬は体調を思いっきり崩した。めずらしく繁華街へ外出した数日後ぐらいから崩れたし、喉がやたら痛かったので、コロナだったかもしれない。ただ味覚は健在だったので、喉の荒れを癒すためにアイスクリームを頻繁に食べたし、そのくせ運動をしなくなったので体重は現状維持~微増の間をふらふらしていた。自炊の頻度も落ちてしまった。
 快復してからも猛暑のせいで運動不足は継続した。さらに8月末には、旅先で庭園の池に思いっきり落ちてしまい、その際に肋骨にヒビが入ったらしく、安静に過ごさざるを得なくなっている。俺はもう駄目だ。あすけんの女に毎日のようにお前はカルシウム不足だと言われていたが、その通りだったようだ。なので先日、薬局でカルシウムのサプリメントを買った。買っただけで、そこまで習慣的に飲めてはいないが。

〇読書
 じぇ~んじぇん読んでない。読書量が多ければ偉いもんでもないけど、続けて読まないと内容を忘れちゃうから勿体ないんだよな。
●ローマ人盛衰原因論
 ローマ帝国の東西分裂ぐらいまで読んだ。アウグストゥスの皇帝即位から始まる帝政ローマが弱体化していき、五賢帝時代に一度は持ち直すも、軍人皇帝が次々と生まれては露に消え分割統治へと移行し、ついには東西に分裂する。
 ローマの盛衰を指導者個人に帰属させず、ダイナミズムとして捉える本書は、カエサル暗殺は起こるべくして起こったものと述べるし、下手人のブルトゥスはありふれた愛国者であり、カエサルの跡をついだアウグストゥスは暴君であるとさえ言ってのける。そんな逆張りっぽい雰囲気から、五賢帝時代も批判するのかなと思いながら読んだら、意外と素直に肯定的な見方をしていた。
 ただ日本では比較的有名なカラカラ帝については、かなり痛烈に批判している。「カラカラは、暴君というのでなく、人類の破壊者と呼ばれるに値しよう」。大浴場を建設したことから、確かテルマエ・ロマエでも紹介されていた皇帝だ。属州民に市民権を与えたアントニヌス勅令の発布など、世界史でふわっと習う程度だとむしろ好意的な印象を抱きそうな存在だが、モンテスキューは彼を国家を弱体化させたポピュリストと断ずる。
 カラカラを始めとするポピュリスト的皇帝たちはローマ市民を堕落させた。安定したパクス=ロマーナの内実では、戦争から遠ざかったことで、勝利し支配するという精神は消失していた。戦いは、公民の務めから、卑しい剣闘士たちが行うのを観覧するものへと変容した。広大な属州から小麦が集められて配給されるので、市民は土地の耕作すら手放した。商工業はこれまた卑しい奴隷が従事するものなので、ローマ市民のすることといえば賭博と見世物ばかりになった。皇帝が絶対的な権力を握っているため、国政についても関心を持たなくなった。「パンとサーカス」と諷刺された腐敗が、ローマには蔓延していた。
 豊かになったので、平和を金で買うようになった。兵士への給料は上がる一方で、大浴場建設などの公共事業の連発と相まって、国庫はみるみる小さくなっていった。しまいには諸外国へ貢納することで平和を保とうとした。貢納のために租税は増額され続け、公民の一部は自ら蛮族のもとへ逃れるようになった。富を得た軍隊は権力を伸長させ、複数の軍団からそれぞれ皇帝候補が挙げられ、実際に皇帝へと上り詰めたが、彼らの多くは外国人や蛮族出身であった。勝利し支配することを至上命題としていたローマ人は、いつのまにか支配される側へと転落していた。ほかの統治形態を知らないので、搦手で抗することもできず、ただ支配を受け入れることしかできなかった。また外部出身の皇帝たちが母国の習俗や宗教を持ち込んではローマに受容させることを繰り返していたので、のちにキリスト教が確立されるための足掛かりにもなっていた。時折は偉大な指導者が登場して持ち直したものの、帝国は確実に弱体化していた。
 かつて商業地として隆盛し腐敗したカルタゴ共和制ローマに敗れたように、豊かになったローマ帝国は蛮族たちに屈するようになった。まさに歴史は繰り返される。モンテスキューは、ここに歴史の普遍性を見出す。「世界を支配するのは運命ではない」。そして、侵略戦争によって、その全盛期には領土拡大を進めるも、晩年には莫大な戦費調達で財政難へと陥ったルイ14世絶対王政を念頭に置きつつ、こう述べる。「あらゆる君主政国には、それを隆盛させ、維持し、あるいは没落させる、精神的もしくは物質的な一般的原因が存する。あらゆる偶然の出来事はこの一般的原因に従属している。そして、ある戦闘という偶然、すなわち、特殊な原因が国家を破滅させたとすれば、そこにはただ一度の戦闘でその国家が破滅しなければならぬ一般的原因があったといえる。」そして執筆から55年が経過した1789年、フランス王朝は革命によって打倒され、ルイ16世はギロチンの刃の露と消える。

ユートピア
 こっちは読了した。ユートピアも、架空の設定ではあるが、豊かな資源と外国貿易をもとに繫栄を築く国家である。そして、平和を金で買っている。戦争を忌避するユートピア人たちは、基本的に資金にものを言わせて傭兵を雇って防衛をしたり、友好国の戦争に助太刀をする。万が一傭兵が全滅して自国に攻め入られた際は自衛することを想定こそしているが、基本的には、自国民の血は一滴たりとも戦場に流すつもりはない。しかし帝政ローマのように腐敗はせず、荒廃することなく栄光が続いている。
 妄想と現実の差と言って片付けることもできるが、イギリスとフランスの違いと見ることもできる。つまり、島国と大陸国の差である。ユートピアは、イギリスが念頭に置かれた島国である。モアが描く理想のイギリスと言っても良い。周囲の海は岩礁ばかりで侵攻は困難であり、そもそも戦争と縁遠い地形である。奢侈を蔑視し、貴金属を卑しいものとして扱う独特の倫理観が国民の堕落や腐敗を防いでいるというが、外部から思想が流入しにくいがゆえに形成される島国根性のようなものとも言える。かたやローマは、広大な陸地の中にあり、周辺には諸外国や蛮族が数多く存在する。民族も思想も習俗も入り混じり、領土は際限なく広げることができる。不断の闘争が要求される地形にあり、その要求に応えることでローマは繁栄し、それを止めたとき衰退へと転じた。理想郷を描くにも、地政学的な差異が生まれるものだ。
 著者のトマス・モアは、ヘンリ8世治下のイギリスで大法官を務めたが、そのヘンリ8世の離婚問題を端緒に失脚し、ついには処刑された人物である。『ユートピア』は離婚騒動以前に執筆されたものであるが、その後半の内容は、結婚と貞潔の問題や、彼の宗教観が展開されており、モアを苦しめる運命を予感させる。
 ユートピアにはキリスト教が布教されていない。正確には、語り部のヒスデロイが訪問した際に伝わってはいるが、司教もいないし、広く信仰されてもいない。未知の国を描くのだから、伝道されていたらむしろ変だ。しかし異教徒の国を理想とするのも、敬虔なカトリックであるモアにとっては難しい話だ。そこで、キリスト教の教義自体は知らないけど、絶対唯一の創造主が存在していてることについて、理性に基づいて共通して信じているという、しょっぱい着地点を設置した。彼らは伝道されずとも敬虔なキリスト者であり、ひとたび教えを聞けば喜んで賛同する。なのでユートピアには特定の宗教こそないが、無神論者は認められていない。「人間の霊魂は肉体とともに亡びてしまうものであるとか、世界は摂理などによる支配を受けず、ただでたらめに動いているにすぎない」といった「思想の持ち主はすべての名誉を奪われ、すべての役目からのぞかれ、すべての国家の公職から追放される」といった徹底ぶりである。その一方で、人間の内心を強制することはできないという理由で、重刑を課すことはない。解説にもあるが、ここにトマス・モアのアンビバレントな態度が見出せる。すなわち、ルネサンスに目覚め人間の理性と良心を信頼する人文主義者としての自分と、信仰深いカトリック教徒としての自分、どちらの理想を打ち立てるべきなのか。そしてユートピアは、理性と進行を擦り合わせるように構想される。離婚についても、認められてこそいるが、理性に基づいてあらゆる判断をして、他に手段がない場合に限ると留保されている。さらに、このユートピアの話自体も、ヒスデロイという架空の語り部による見聞録として展開され、それについてモア本人は「ユートピア人の風俗や法律などの中には、必ずしもその成立の根拠が合理的とは思われない点が沢山あるように、私には感ぜられた」、「これをわれわれの国に移すとなると、ただ望むべくして期待できないものがたくさんある」と留保を上乗せしている。そういえば『ガリヴァー旅行記』で、語り部ガリヴァーが最後には狂人と化してしまったのも、思えば同様の留保だったのだろう。
 ヘンリ8世の離婚について、それこそモアは理性に基づいても認めることはできず、教皇が認めた結婚を否定をすることは信仰においても承認できなかったのだろう。カンタベリーの宗教会議が、ヘンリ8世について、教皇をも凌ぐ「最高の主」と認めると、翌日にモアは大法官を辞した。そして自らの信ずるところを貫いた果て、ヘンリ8世から報復を受けて斬首刑に処された。ユートピア古代ギリシア的な世界観だったが、この死に様もなんかソクラテスを髣髴とさせるよな。

〇漫画
 エロも一般作品も読んでねぇ…。沖縄旅行に行くに際して、『あずまんが大王』を読み返したくらい。でも面白かった。萌え四コマの元祖みたいな言われ方するけど、四コマ漫画としてちゃんと面白いんだよな。なんか触発されて、沖縄旅行のレポ漫画を四コマ形式でちょっとだけ描いてみちゃったよ。でもやっぱ描くの難しいわ。そもそも旅行で起こった事実を四コマでオチを付けつつ再現するのがハードル高い気もする。普通のコマ割りのほうがやりやすい気もするけど、そうなると照れちゃって描けないんだよな。一応のオチを付けてるから人に見せられるというか…。話すときとかもそういう意識あったりするでしょ。まあ今書いてる文にはオチはないけど…

〇映画
●『君たちはどう生きるか
 面白くは…なかった。宮崎作品で並べるなら下から数えたほうが早い。上映中そこまで時間が気にならなかったし、つまらない訳ではないけど、ジブリならもっと面白い映画を見せてくれよと思った。とはいえハウル以降そんな好きじゃないしな…。
 ジュブナイルであり、駿の命乞いでもあった。神話のように「出立」→冒険→「帰還」の流れを踏み、主人公・眞人が精神的に成長をするジブリお得意のビルドゥングス・ロマン。しかし、この冒険で「父親殺し」がなかったのがどうにも引っかかる。言い方が悪いが、結局は、駿の命乞いのように映って見えた。以降はネタバレ前提で話すぜ。
 眞人の父親・勝一は、打ち倒されるべき俗物である。妻が死ぬや否や、彼女とそっくりな顔立ちの妹と再婚して孕ませるし、疎開先の学校には、仰々しく車で息子を送って悪目立ちさせる。戦況の悪さを儲け話として悪びれずに話すし、息子がケガをして帰ってくれば正義は我にありといった面持ちで「代わりに復讐してやる」と大声を上げる。眞人にとってはすべてが抑圧であり、それが彼を「下の世界」への冒険と導く。
 「下の世界」はいわば精神世界である。現実世界からは干渉できない空間であり、現に勝一が入ろうとしたシーンでは扉から大量のインコが飛び出して彼を拒み、さらには大量の糞をお見舞いした。「下の世界」に俗物が入ることは許されない。そして、この世界を管理するのは、やはり本ばかり読んで浮世離れした大叔父である。彼は現実世界では失踪扱いだが、「下の世界」では管理者として世界の均衡を保つ役目を果たしている。「下の世界」につながる入り口は、まさに象牙の「塔」の中にあった。ここで大叔父と父親は、聖俗の対比になる。眞人が導かれるように塔へ向かったのは、俗世の汚れを拒み、無垢で神聖な精神世界へ逃げ込むためである。インコが現実世界に飛び出すや否や糞を撒き散らすのも、現実の汚さを表した描写である。では眞人は無垢な存在かというと、本人はそうだと思い込んでいるだけである。そして、自分も汚い人間であることを無意識には知っている。
 青サギは眞人の分身である。案内役として「下の世界」の旅に同行する彼は、おっさんのような醜い顔立ちで、嘘ばかりついて眞人の邪魔をする。その姿には、一見澄ましているけど、中身は醜くて嘘つきの汚い人間であるという眞人の無意識の自覚が反映されている。自分を嘘つきであると認めた終盤、彼はやっと青サギを「友達」として受け入れる。自分の醜さを認めることで、彼は醜い人間たちが犇めく現実世界へと戻る決意をする。君たちはどう生きるかといえば、己の醜さを認め、そして他人の醜さを受け入れていくしかない。それが人間であり、眞の人だと言うのだろう。眞人と青サギという名前には、二人が裏表の関係にあるという言葉遊びのような意図も感じられる。
 簡単にまとめてしまうと、世俗の汚さを目の当たりにして傷ついた少年が、冒険をして成長して、「そういうもんだ」と理解して世俗で生きていくことを選ぶ話だ。だって自分だって嘘つきだし(「この傷は自分でつけました」)。だけどやっぱり冒険に足りないところがある。「通過儀礼」である。魚の解体とかペリカンの埋葬とか多少はしてるけど、千尋の油屋での奮闘に比べるとどうも弱い。言われたことにはすぐに従うし、父親について愚痴ひとつこぼさない。基本的に会話だけで、大した通過儀礼もなく自らの醜さを認める地点にまで至ってる。どうにも物わかりが良すぎる。いきなり「夏子母さん」とか言い出したときはびっくりしちゃったよ。
 なんで眞人が通過儀礼もなく物わかり良く成長しているかといえば、結局は父親のほうは殺されたくないから、会話で済むなら済ませたいからが大きいと思う。ムスカみたいに天空の城から落とされたくないもんね。話せば分かる。まあ本作に至っては眞人は勝一とほとんど話すことなく分かっちゃったけど。「親父も色々大変だったんだな」って汲んでもらえるに越したことはない。君たちはどう生きるかといえば、人間の醜さを認めて生きていくしかないんだ。だから醜い俺を切り捨てないでくれ。そういった命乞いの声が、遺作にもなりそうな本作の中にある気がする。
 そもそも今日日「親殺し」なんて流行らないぜ、みたいな風潮もあるかもしれない。「エヴァ」でも、旧劇では初号機がゲンドウを嚙み殺したのに、新劇のシンジ君は「父の落とし前は僕が付けます」なんて大人しいセリフを決め顔で言い放ってた。でも「そういうもんだ」と物わかり良く我慢した結果の一つが、昨今話題のちんぽしゃぶられ事務所の悲劇でもあるからな。殺さないとしゃぶりつくされた挙句にとんずらこかれちゃうかもよ。長瀬智也の引退作『俺の家の話』も、思えばそんな話だった。世界的「父親殺し」小説の『カラマーゾフの兄弟』を下敷きに、能の大家で人間国宝の父親に反発し、プロレスラーへの道を選んだ長瀬演じる長男・観山寿一。家を飛び出してから25年、父の危篤を聞いて実家へと戻る。父親の死期が近いことを受けて初心に帰り、能の継承と介護を決意するホームコメディ。ネタバレを言えば、当然「カラマーゾフ」のように父親を殺すことはなく、それどころか寿一は稽古と介護と生活費のためのプロレス興行の三重生活の果てに、リング禍で落命してしまう。「そういうもんだ」と口癖のように言い続け、出戻ってからは甲斐甲斐しく働いた結果、余命一年の父親より先に死んでしまう。諷刺がきつ過ぎるだろ。そこまで尽くしても戒名には「脛齧居士」なんて付けられちゃうんだから、たまったもんじゃない。
 その点『天気の子』は偉かったよな。大人たちが滅茶苦茶にした地球環境のために陽菜さんが人柱になる必要はないって中指立てて叫んだもんな。やっぱり誠はすげぇや。

〇行ったところ
●科学博物館
特別展「海」に行った。夏休みだったので人がごった返してた。大量のイルカの骨や、シーラカンスの標本とかがあったよ。説明展示だと「ホエールポンプ」って概念が面白かった。海洋生物の移動って聞くと、つい水平方向での移動ばかりイメージしちゃうけど、哺乳類のクジラは息継ぎのために海中を垂直方向に移動する。この移動に伴って植物プランクトンが運ばれていて、それが生態系を支えているっていう循環システムなんだって。
博物館に行った後は、上野駅のフルーツパーラーで桃のパフェを食べた。なんか『1日外出録ハンチョウ』みたいな生活してんなお前な。

トキワ荘マンガミュージアム
よつばと!』原画展に行った。異常な取材量と緻密な描き込みにドン引きしちゃった。漫画の模写とかしてるせいで、以前だったら「はえ~すっごい」みたいな感想で終わるところが、「俺には無理だ…」と打ちのめされるような気持ちになった。実際この日以降、絵を描く頻度が下がった気がする。それでも四コマ描いたんだから俺偉いよ。

以上!