りは☆びり

労働で破壊された脳のリハビリです

7月振り返り

それなりに健康かつ文化的に過ごせたんじゃないですかね。
分かりきっていたことだけど、6月ほど規則正しくは過ごせなかった。
前回同様に項目別に行くゾ~。面白みはないぜ。

〇健康
●食事
 6月とそれほど変わらない内容。ただ体感として、胃袋がどんどん小さくなっている。米1合で満腹感を覚える。大盛無料のラーメン屋で、迷うことなく並盛を頼むようになっている。20代も終盤へ向かっているので加齢によるところもあるかもしれないけど、半年前までは無限に出前を頼んではドカ食い気絶を繰り返していたので、まあ健康的にはなってるんじゃない?

●運動
 暑いので走らなくなった。6月は2日に1回のペースで皇居を1周していたが、7月は4回しか走らなかった。でもそのほうが健康的だろ。わずかばかりの筋トレや長めの散歩が少し増えた。

●記録
 あすけんを継続している、と言いたいところなんだけど、月末あたりから記録をサボり気味になってる。ここで白状したのを機に、明日からまた再開したい。体重は測り続けていて、7月はだいたい3kg減った。無理なく痩せるならこれぐらいが限界な気がする。BMIでいうところの、標準体重の域にやっと戻れて嬉しいデブねぇ。

〇読書
なんか読むペースも落ちてる気がする。
●千の顔を持つ英雄
 序章を読み終えて、第1章『出立』に突入。キャンベルによれば、古今東西の神話や民話に見られる英雄譚には、大きく分けて3つの段階があるという。その第一段階が「出立」で、続いて「通過儀礼」、そして「帰還」へと至る。ここでの出立は、物語における冒険へ旅立ちを意味するとともに、人生においては思春期のような「成人」になるための発達段階でもある。第1章『出立』では、グリム童話「かえるの王様」が例示される。ちょっと前に流行った「蛙化現象」の元ネタだ。美しい王女が、湖畔で金の毬を投げてはキャッチするという一人遊びをしていたところ、うっかり湖に毬を落としてしまう。そこで醜い蛙がやってきて、あなたの友達にしてくれるならば、私がその毬を拾ってきてみせましょうと提案をする。一種の「美女と野獣」的な関係にも見えるが、ここでキャンベルは男役が動物であること、とくに醜い蛙であることに注目する。いわく、この不気味な蛙は、神話や民話に多く登場する大蛇(グレート・ファーザー・スネーク)の類型らしい。父なる大蛇、あるいは竜の化身というのは、地下世界・精神世界の主であり、生命の創造を司るファルスそのものである。要はちんぽにゃ。古今東西の英雄はちんぽと対峙するが、それは単純に打倒するだけでなく、回避せずに向き合うという側面もある。「かえるの王様」においては、それまで王様の庇護のもとで幸せに暮らしていた王女の前に現れた醜い蛙は、初めて目にしたちんぽであり、その登場は王女の思春期の到来を告げるものだ。
 蛙がドラゴンの類型という話は、ほんとかよと思うところもあるが、そこで少女が思春期を迎えると来ると、どうしても思い出しちゃう漫画がある。『ルリドラゴン』である。いつ再開すんねん。『ルリドラゴン』はまさに少女が思春期を迎えて、それを戸惑いながら受容する物語なんだが、その思春期を「角」という形で視覚的に表現している。角は、おでこにできて肌を突っ張らせるニキビのようでもあり、身体的な煩わしさをルリに与えるとともに、「不在の父」そして「自分は何者なのか」という今まで何となく見過ごしていた精神的な問題を彼女に突きつける。女子高生なのに思春期は遅くない?という指摘もあるだろうが、それは片親で一人っ子という家庭環境で早熟を迫れ、精神的な問題を先延ばしにしていたツケが遅れてやってきたからという印象がある。現にルリは、どこか醒めたような雰囲気を常に出しながらも、内面では周囲の生徒よりも幼稚に描かれる。もっとも、それはルリ個人の家庭環境やドラゴンの力といった特殊なケースではない。読者各々が思春期に抱えたであろう、「こんなに悩んでいるのは世界中で俺だけだ、誰も分かってくれないんだ」と、ありふれた悩みについて自分固有のものだと思い込んでしまう、あのひとりよがりな心境にも通じる。『ルリドラゴン』は、流行りの多様性的な、「まわりと違う人もいるけど、仲良くしましょう」的な見方で読むこともできる。本編の教師のセリフもそんな感じだし。でも、そんなのはやっぱり説教臭いし退屈だ。思春期というのは、誰もが「まわりと違う人」になる時期なのだ。その表れとして、手首に包帯を巻く奴もいるし、ドラゴンの角が生えてくる奴もいる。そうやって読んだほうが、ずっと少年漫画的な気がする。

ガリヴァー旅行記
 4章「フウイヌム国渡航記」読了。「フウイヌム国」は馬が暮らす楽園のような国で、その名前は馬の嘶きに由来する。馴染みやすく言うならば「ヒヒーン国」である。ガリヴァー旅行記は、この4章こそが本命であり、これまでの小人や巨人、科学や死霊の国への冒険は前座に過ぎない。作者のスウィフト流の「ユートピア」であり、主人公のガリヴァーも、ここに漂流して住み着いてからは元の世界に帰りたくないと思うようになる。
 書物を著して発表する人間というのは、楽観的である。いくら現実世界に絶望していたとしても、その言論の力で世の中を少しは考えられると思っているはずだ。メルヘンで逃避的にも見える幻想文学であっても、現実への期待がどこかに反映される。冒険に出た英雄は、試練を経て、世界を変えうる力や智慧を獲得し(通過儀礼)、それを携えて元いた世界へと戻って来る(帰還)。1~3章においても、ガリヴァーは旅から戻るごとに、小人が飼っていた極小の家畜や、巨人から抜けた巨大な歯という土産とともに、未発見の知識や価値観を故郷のイギリスへ意気揚々と持ち帰った。しかし、4章のガリヴァーはすっかり変わってしまう。帰還をいっさい望まず、現地の馬たちに無理やり追い返されて、やっと帰国したと思えば人嫌いの引きこもりになってしまったのだ。旅行記こそ著したものの、人間世界の改善を提案することはなく、ただただフウイヌム国の素晴らしさを賛美して、現地の思い出を懐かしむばかりである。ガリヴァー、さらには著者のスウィフトは、自らの言葉で世の中を良くしてやろうという気概よりは、むしろ諦めを覚えているような印象を受けた。
 フウイヌム国がそんなに良いところなのかというと、全然そんなことはない。むしろ善人しかいなくて退屈で、いっそ気持ちが悪い。住民である馬たちは、質実剛健な暮らしをしていて、奢侈や姦淫などの悪徳には一切の関心がない。嘘をつくという概念がないから、そもそも「嘘」という言葉を持たないし、修辞学も発展せず、語彙が極めて少ない。そのくせ趣味は議論とスポーツぐらいしかない。性欲も大してないので、子作りは人口のコントロールに過ぎない。毛の色によって身分が決まるが、誰もが現状に満足しているので階級闘争も起きない。馬の持つ考えについて「ソクラテスの意見と全く合致していた」とあるように、スウィフトはソクラテス的な、理性ですべてが説明されるような世界に憧れ、古代ギリシアをベースにそれを再現したのだろう。このソクラテス楽天主義という点においては、スウィフトも楽観的だったといえる。
 この、理性によって世界の理を解明しようという姿勢は、18世紀イギリスを中心に隆盛した啓蒙思想そのものである。ガリヴァー旅行記の初版が出版される前年の1725年には、スコットランド啓蒙思想の祖とされるハチスンが『美と徳の観念の起原』という論文を発表している。ハチスンは、道徳を「精神的な美」と位置付けて、「何を美しいとするか」を議論する美学を起点に道徳哲学を展開するおじさんだ。もっとも、その美学の論文で、「美しさとは多様性や数の多さに拠るところが大きいので、図形でも三角形より四角形が、四角形より五角形が美しい」とか言い出しちゃう怪しいところもある。ハチスンいわく、美しさには二種類ある。「直接的、本質的な美」という、一目見たらすぐ分かる美しさと、「間接的な、有用性に基づく美」という利便性や快適さから類推されうる機能美的な美しさである。人間についても、キリスト教的な神(自然)による最高の被造物という、肉体そのものとしての美と、表情の豊かさや指先の器用さのような機能美が存在する。
 なんでいきなりハチスンの美学について話したかというと、ガリヴァー旅行記4章では人間が徹底的に醜い存在として描かれてん。フウイヌム国には人間によく似た姿の野獣「ヤフー」が登場する。某検索エンジンの名前の元ネタやね。ヤフーは人間の悪徳を凝集したような描かれ方をしていて、強欲で、同種で醜い争いを繰り返し、性に奔放で、きらきらした石を集めては本来の価値以上にありがたがる習性を持つ。ただし、ガリヴァーら人間のように衣服を纏わない代わりに毛深く、二足歩行をしないために手足の爪は鉤状に伸びている。ガリヴァーは一目見たときから「私のすべての旅行を通じて、これほど醜悪な動物を見たことも、またこれほどただもうわけもなくむかむかするような嫌悪感をいだいた動物もいなかった」と毛嫌いしたが、フウイヌムからは同類の扱いを受け、さらにヤフーのメスからレイプされかけたりしている。まあ同族嫌悪やね。さらにフウイヌムに言わせれば、人間は「力も速さも敏捷さもなく、爪も短く、その他本来どうといったこともないいろんな点でヤフーよりも劣っている」という。なんか『金魚王国の崩壊』を思い出すよね。

ガリヴァー=藤代御風説

 ミカゼちゃんの先生が説明していたように、人間にだって優れた側面がもちろんある。長距離を走るために皮膚に毛がないのも一種の機能美だし、直立二足歩行も脳の巨大化を可能にした美しさだと言える。手先の器用さに至っては馬ごときじゃ勝てねぇだろ。スウィフトもそこは苦しかったのか、「フウイヌムは…蹄をなんかこう…巧い具合に使って細かい作業ができます…」みたいなことを言って無理を通そうとしてた。1~3章で展開された人間の相対化を極めて、「神の最高傑作としての人間」というキリスト教的な価値観を転倒させたことは革新的・啓蒙的だった一方で(フウイヌムという名称は、現地語で「自然の生んだ最高傑作」を意味するという設定でもある)、人間嫌いが行き過ぎた余りに人間の持つ動物的な機能美を無視しちゃった感じは否めない。また、フウイヌムが持つ「理性」についても、ソクラテス的なものを期待している一方で、人間が陥る矛盾や衝突については、そもそも醜い欲望を持たないので遭遇しないみたいな、空想的な都合のいい避け方をしている印象があった。無知・無欲であれば罪を犯さないという牧歌的な考えは、スウィフトが愛読していた『ユートピア』に通ずるどころか、むしろ後退しているような印象も受ける。
 結局、ガリヴァーはフウイヌムたちと仲良く暮らしたものの、ヤフーは追い返すべきという一部の意見に逆らえず、すごすごといかだに乗って帰国することになる。人間嫌いの引きこもりになったガリヴァーを、狂人になってしまったんやなぁと読者は冷たい目で見るわけだが、ここでふと自分の現状にも目をやってみる。俺は現在休職中な訳だが、その生活をすっかり満喫している。本を読んで、絵を描いて、ときどき運動をしたり、博物館に行ったりという悠々自適の高等遊民のような日々を送っており、復職がしたくなくてしょうがない。もはや労働は卑しいもので、すればするほど知能が落ちていく作業だとすら思っている。とはいえ食っていくには働かなくてはならないし、現にそろそろ復職しないと…という気持ちもある。そう、ガリヴァーは俺だったのだ。休職生活というフウイヌム国から、会社という人間社会への帰還を迫られているのだ。キャンベルも「帰還」は容易なものではないと言っていたけど、これか~。助けてくれ~。

●ローマ人盛衰原因論
 第13章「アウグストゥス」まで読了。『ガリヴァー旅行記』と同時期の1734年に出版された、モンテスキューによる歴史・政治論。およそ300年前の著作なので、ローマ史としての内容の信憑性は分からないが、どちらかというと大国・ローマの盛衰を18世紀の政治思想家がどう捉えたかという思想史的な部分が主題にある。『ガリヴァー旅行記』も諷刺の形式で、当時の英国やヨーロッパ社会への政治的批判を展開したわけだが、こちらは歴史を通じてフランス王政を批判する。トーリー党支持者のスウィフトが嫌悪していたウォルポールらの議院内閣制を、ルイ14世絶対王政に悩まされたモンテスキューは「〔議会が〕政府を不断に監視し、自ら自身をも不断に監視している」と評価している。17世紀の市民革命と社会契約説によって解体されつつあった王権神授説は、18世紀の啓蒙思想の台頭により衰退していき、いくつかの国では啓蒙専制君主が登場する。王の立場が、神に選ばれた存在から国家の代表者へと移行していく近代に対して、ローマでは市民の代表者が神格化されていく道を辿る。
 ローマがなぜあそこまで強大になったかについて、モンテスキューは不断に戦争を継続していたためだという。戦争と言っても、それは近代以降の技術革新によって大規模化したものではなく、古代の、個人の殺傷能力が限定されていた頃の戦争である。初期のローマは商工業を持たず、農業と軍事に専心していた。周辺の都市に戦争を吹っかけて、全滅させずに程よく破壊と略奪をするというものを繰り返す。すると戦士は常に戦闘を意識し、鍛錬を怠らない。戦利品は平等に分配されるので、過度な奢侈や放蕩にも溺れない。戦争に割くリソースが周辺より大きいので負けることは少ないし、万一負けても決して負けを認めない。交渉を粘りに粘って消耗戦を耐え抜き、意地でも自分に有利な条件で講和を結ぶ。そういうヤクザ国家だったので、次第に勢力を伸ばしていったという。他国間の戦争についても、弱いほうに助太刀とかいって介入してきたりするとこも、欧米のヤクザな性格のご先祖的要素が垣間見える。そうして商業都市カルタゴ(もちろん商業優位だったので負けたと評価されてる)をはじめとする周辺を打倒して、領土が広がっていくと次第に軍事的指導者が台頭してくる。支配する土地が大きくなっても、人間の大きさは変わらない。広くなった分、管理者の数は増えるし、通信技術も未発達なので、遠方であるほど管理者は公民としての自覚が薄れて指導者の性格が顔を出す。管理下の人間についても、「兵士たちは自分たちの将軍しか認めず、彼に全面的な期待をつなぎ、都市ローマをはるか遠くから眺めるようになり始めた。これはもはや共和国の軍隊でなく、スラの、マリウスの、ポンペイウスの、カエサルの軍隊であった」。カッケ~。翻訳が上手いところもあるんだろうけど、モンテスキューの言い回しは明快で力強い。なので結構読みやすい本でもある。
 そして軍人カエサルは、政争の果てに独裁官に就く。この英雄について、モンテスキューは傑出した個人として見ることなく、ローマの歴史というダイナミズムのなかの一現象として捉える。ローマは膨張すべくして膨張したように、独裁者が生まれることも自然な流れに過ぎない。「カエサルポンペイウスがカトーのような考えをしていたとしても、他の者はカエサルポンペイウスのような考え方をしただろう。滅亡を運命づけられていた共和国は、他の人間の手で破滅へと導かれたであろう」。すると当然、ブルータスの裏切りによって落命するという「ジュリアス・シーザー」の悲劇もまた、起こるべくして起こった政変に過ぎない。『神曲』では、裏切り者として地獄の最下層で氷漬けにされたブルータスだが、モンテスキューはむしろ「祖国に対する圧倒的な愛」を持った公民に過ぎないと評価する。そして最高権力を簒奪した人物を処断するには、暗殺のほかないと述べている。「なぜ彼が公開の権力によって、あるいは法律によって追及されなかったのかと問うことは、彼の犯罪の理由を問うことではなかったか?」
 それではなぜ、カエサルは後世においては悲劇の英雄のように見なされるのか。その理由は彼の死後にある。「陰謀者たちは、陰謀のためにしか計画を立てなった」ため、代わりにすぐさま専制者が登場することもなく、カエサル暗殺直後のローマはただ動揺していた。混乱を避けようと元老院カエサルの遺言を承認したため、その死後もカエサルの体制は継続した。カエサルの遺体は当初、川に投げ捨てられるはずだったが実行されず、無事に埋葬され、民衆の前で追悼演説も読み上げられた。さらにはカエサルを記念して競技が行われるなか、彗星が7日間も現れたという事件もあった。そして暗殺に関わった陰謀者は、戦争や自殺によってカエサルを追うように消えていった。政争の渦中にいた陰謀者が落命することは当然ともいえたが、「カエサルの殺害者たちを罰し、彼らの大義名分を否定した天の復讐の結果であるという考え方がなされた」。かくして、武力で台頭したに過ぎない市民の代表者は、神格化されていく。極めつけは、彼の相続人であったオクタウィアヌスが、初代皇帝・アウグストゥスとして地位を確かにしたとき、カエサルは皇帝の称号となった。
 ここから続く帝政ローマを、モンテスキュー絶対王政下のフランスと重ねて、衰退の警鐘を鳴らす展開になるんだろう。教科書とかではアウグストゥス五賢帝時代を「パクス=ロマーナ」と呼んでいたけど、アウグストゥスを暴君と断じたモンテスキューがどう評するかが注目やね。

ユートピア
 第2巻第5章まで読了。前述の通り、『ガリヴァー旅行記』の著者・スウィフトの愛読書でもある。第一次囲い込み運動を行っていた16世紀に出版された本で、著者のトマス・モアが「ユートピア」に行ってきたという旅人から話を聞く形式で綴られている。『ガリヴァー旅行記』同様、というかその源流らしく、理想郷を描くことで当時の自国・イギリスへの当てこすりをするスタイルである。モアの理想も、古代ギリシア世界的なのだが、その中でもエピクロス派の快楽主義に傾いている。快楽主義といっても勿論無限にセックスしまくるとかではなく、人間にとって有用・有徳な事物というのは、快楽を感じるように作られている、それゆえ快楽さえ追求すれば、それが自然の定める法に従うようにできているという考え方である。ここまでは単なる快楽主義だが、『ユートピア』では、この考えがさらに押し広げられる。自然は必要なものを必要なだけ我々に提供している。現に水や空気といった生命に不可欠なものは、自然界に潤沢にある。裏を返せば、稀少なものは必要でないから稀少なのであり、それを珍重することは自然の法則に反する。こういった理屈で、ユートピア人は稀少性を否定する。金や銀といった貴金属は卑劣な物質であり、ユートピアでは便器や罪人の枷に用いられるのだ。
 スウィフトが描いたフウイヌム国と較べると、ユートピアは人間が暮らす国なので幾らか現実世界の国家と近いところがある。外国と経済を行ってもいるし、犯罪者に対する処遇なども設定されている。ただ何よりも私有財産を認めない原始共産主義の世界なので、実態はディストピア的と言える。そういえば「ユートピア」の「ユー(οὐ)」って非とか無とかの否定を意味するから、「ディス(dis)」と変わらないんだよな。市民全員がローテーションで農業に従事させられて、そのためにどこに住むかも国家に管理されている。衣服や食事も画一的だし、都市間を移動するときも為政者の許可が要る。案の定人口はコントロールされていて、各世帯は一定数の子供を抱えていなければならないし、足りない場合はほかの世帯から余った分を受け入れる。このへんの統制国家ぶりはかなり不気味だ。一方で市民全員が農業に従事するというように、階級社会を崩して労働人口を増やそうとするアイデアは現実の資本主義社会においても部分的に実現している。フウイヌム国では無知と無欲によって制御というか抹殺されていた悪徳は、ユートピアでは教育と法律によって矯正される。このへんもまあ、改めて自覚すると気持ち悪い感じがするけど、現実においても為されてるところもある。ただ国民の道徳教育がずいぶん行き届いているらしいユートピアでも犯罪者が出ているのは謎なところ。しかもユートピアは犯罪者を奴隷にして、雑役や屠殺といった特定の職務に従事させるというので、常に一定数の犯罪者がいないとシステムが回らない気がする。犯罪者の数もコントロールしているのかな?怖すぎ。

〇エロ漫画
・出会って4光年で合体
 ようやく読んだ。でももうこれ以上だらだら感想書きたくねぇよ。面白いけど、前戯が長すぎて流石に抜けないっすね。稲荷の民間伝承という神話・民俗学をベースに、SFとか「セックスするまで出られない部屋」みたいなエロ漫画モチーフを自在に接続していたのはオシャレだし凄いと思う。複数ジャンルを横断してるから、それぞれのオタクが自分のいる位置からあれこれ語りやすくてバズりやすくもある。あと言葉遊びも巧みやね。くえんが「食えん」だったり「久遠」だったり、稲荷が「異形」だったり。こうなると「重力」(万有引力、真男の重力研究施設、おもかるいなり)は「思い」とも掛かってるのかもね。化物語かな?
 太おばの描く竿役がなぜ醜形で、性欲に溢れているかも明かされた感じがする。彼らは「異形」であり、その異形さは地上の生命によって連綿と紡がれてきた多様性の先端なんやね。不細工なのにセックスをしたいのではなく、不細工であるべくして不細工であり、また不細工だからこそセックスをして、次の世代をより多様なものにしたいのかもしれない。あと醜形の赤子がトイレで生み捨てられるというのは、水蛭子っぽさがあるよね。
 プロット的に気になったのは、物語の大筋が真男の天才的な頭脳に依存して展開していくところ。真男も結局は妖狐の子孫なので、なんか上位存在に振り回されるばかりで、人間の意志が独り相撲になってる感じがしちゃった。でもまあ現実の科学技術の革新も、それこそ巨大資本によって一方的に生み出されて、多くの人間にとっては天から否応なしに降って来るようなものだしな…。そこで俺たちが険しい道を歩いたり川に飛び込んだりできるかが大事なのかも…。あと中盤までディストピアめいた不穏な科学技術(性欲を失くす薬や監視システム)が、最後には一種の便利な手段に堕していたのは結構前向きな感じがした。
 ぱっと思いつく話はこんくらいやろ。あ、あと一個だけ気になったのが修正だよな。インディーズのエロは出版社が守ってくれないから(プロが出版社に守られているとは言っていない)、自衛のために修正を強くしたほうが賢明なのかもしれないけど、それでもクライマックスのこの修正は強すぎて疑問を覚えた。

2コマ目の修正いる?

銀河鉄道の夜をパロってたし、これも線路みたいなもんやろ、みたいな考えもなくはないが、それほど状況に合っている気もしない。別に挿入してもいないし、性器にも修正入ってるのに、さらに伝ってる精液まで黒塗りを重ねていて、なんか戦後の教科書みたいだよな。
 そもそも、こんな風にエロ漫画に修正を入れなきゃいけないのが意味不明すぎるんだよな。こんな修正を入れることで何が守られるんだよ。最近エロ漫画模写してることもあって、刑法175条とかいうクソ法令にマジで憤っている。わいせつ物の定義も根拠も曖昧だし、こんな古色蒼然とした無駄な法律で現代のポルノ作家が苦しめられているのが本当に悔しい。ポルノを解放しろ!!!!!!!!

〇一般漫画
 新しく読んだものがない気がする。ジョジョリオンを読み終えた。ビ、ビミョ~!カツアゲロードみたいな超常現象と戦うのは面白かったけど、本筋の岩人間との戦いがかなり微妙だった。岩人間の立ち位置がよく分からないんだよな。人間よりずっと長寿で、人並みの知能もあって、そのうえスタンド使いだったら、もう金儲けしなくてよくない…?あいつらの欲望や原動力がいまひとつ分からない。2部の究極生命体のカーズと、4部の静かに暮らしたい吉良吉影を掛け合わせた結果、どっちつかずで目的意識がない存在が生まれちゃったような印象だった。主人公の定助も周囲に無関心な性格であまり好きになれなかった。

〇映画
時をかける少女
 一番好きなアニメ作品。期間限定で劇場上映されていたので、せっかくだから観に行った。やっぱり最高の映画だった。思春期を冒険する少女が大好きやねん。中高男子校&一人っ子だったせいで、現実に少女が思春期を迎える姿を見たことがない分、代償行為的にアニメで追いまくってしまう。柳田國男折口信夫アマガミSSレビューで有名な人が書いた感想文がとても良いので、リンク貼っときます。
時をかける少女(感想) - The Great Underground Home Page
 夏の入道雲に感傷的な気持ちを覚えるのは、それが果たされていない願望が内に膨らむ様を暗喩しているからなのかもしれんね。

呪怨
 ホラーをなんとなく避けて生きてきたので、初めて見た。結構ドキドキさせられたけど、出演してる女優がやたら美人なのがかえってノイズだった。伊東美咲ってあんなにスタイルよかったんですね。白塗りの男児の登場の仕方が、ジョジョリオンのワンダー・オブ・Uみたいだった。そういえば荒木はホラー映画をよく見るらしいし、スタンドの演出の参考にしているのかもしれない。ホラー映画そのものを避けてきたものの、そういうエッセンスには結構触れながら生きてきたのかもしれない。

〇行ったところ
鷲宮:柊姉妹生誕祭
 オタクなので、鷲宮に行って柊姉妹の誕生日イベントに参加しました。道を歩けば2008年発売のゲームの特典Tシャツを着ている古のオタクが、蕎麦屋に入ればガルパンの話を大声でする岡田斗司夫似のオタクコンビがいたりして、タイムリープしたのかと思った。イベントの雰囲気も牧歌的で、古参オタクが商工会の人間と仲良く話していたり、キモいながら生暖かい空間が広がっていた。水面に垢が浮きまくった銭湯の浴槽みたいな感じ。

東京スカイツリー
 初めて登った。東京だけでなく、埼玉や千葉まで眼下に収めることができる眺望で、関東在住の身としては楽しむことができた。外国人観光客が多かったけど、東京周辺の地理関係を知っていないと、ごちゃっとした景色を見下ろすだけな気もする。あとチケット代が高すぎる。

竹久夢二美術館
 最近はよく女の体を描いているので、女の体ばっか描いていたおじさんの絵を見てきた。夢二の描く女ってエロティックではあるんだけど、エロ漫画とかで期待する四肢がしっかりとした、感度のよさそうな体じゃなくて、身体の輪郭がぼやけて柔らかく溶けたような感じがする。白い紙に黒い線でくっきりと描かれたエロにばかり触れているので、今の実力では参考にできないけど、いずれ「こういうエロスもあるのか!」とハッとする時が来るのかもしれない。

こんなところですかね。10000字超えとるやんけ~。読んだ本の話とかペダンチックな感じもするけど、書いとかないと整理されない節もあるから、多少はね?ほなまた~。