りは☆びり

労働で破壊された脳のリハビリです

【エロ漫画感想文】石見やそやの賢者タイム

石見やそやという作家がいる。Twitterでもバズってるので、読んだことがある人も多いだろう。



彼の作品の最後は、なんか雑だ。

こんなんばっか

絵は簡素だし、オチも結構やっつけな感じがする。それまでの濡れ場では臨場感たっぷりなのに、最終ページは打って変わって乾いた印象を受ける。
だが、それがいい。なぜか。これがエロ漫画だからだ。

突然だが、ジャンプの漫画が基本的に見開きで終わることをご存じだろうか。
普段読んでいてもあまり意識しないが、週刊少年ジャンプの掲載作は基本的に各話19ページ・片始まり見開き終わりの構成を取っている。
なぜか。ジャンプ作品は、基本的に各話のピークを最後に置くからだ。それは次話への期待を煽らなければならない週刊連載の宿命である。読者を物語の途中で満足させてはならない。主人公は絶えず成長が要求され、風呂敷は広げ続けるべきである。
同時に、途中で退屈させてもいけない。ゆえに各話ごとに一定の進捗を見せ続ける必要がある。問題全体は解決しなくとも、部分的な打開は絶やしてはならない。
そんな生かさず殺さずの緊張感で週刊連載が行うために、ジャンプは各話を見開きで終わらせる。最終ページに大きなコマで、心地よい読後感を与えつつ、次週への引きを作るのだ。また視覚的にも、物語を広げ続ける以上は、画面も広がったままにすべきである。

片やエロ漫画は、話のピークを最後に置かない。もちろん、これは事後が描かれるからだ。
最終ページ一つ手前で絶頂を描き、最後はピロートークなどでチルアウトさせて締める。次号への期待感は不要であり、むしろキャラクターの伴走者としてともに絶頂を迎えた読者の賢者タイムに寄り添うような着地が求められる。だからエロ漫画は見開きで終わらない。膨張した男根が射精を経て萎れるように、漫画も片ページで小さく、尻すぼみで畳まれるほうが好ましいのだ。

石見やそやの作品は、その賢者タイムへの寄り添い方が段違いなのだ。なんなら作者本人も、最終ページは射精後に描いてるような感じだ。どこか投げやりで虚無感のある終わり方は、精液を受け止めたティッシュペーパーを雑に投げ捨てて天井を仰ぐ読者、というか俺の心境にシンクロする。

念のために書くが、石見やそやは決して雑なエロを描く作家ではない。むしろアイデアに富み、画角や演出を工夫する熱心なエロ漫画家だと思う。
Komifloで読まれることを想定してか、扉絵をサムネイルとして目を引くように作ったりするのも素晴らしい。

Komifloの作品一覧。『間違って送ってしまいました。』はスマホ画面を丸々扉絵にしたり、『死にたGIRL』は題のレタリングが目を引かせるなど、新作は特に工夫が凝らされる。

シチュエーションも奇抜でバズりやすいものが多い。NTR、メスガキといったトレンドを採用するだけでなく、都会へ引っ越した幼馴染と再会したら、やたらエロ漫画に出てくるギャルっぽい姿になってたというエロ漫画をメタ化した話(エロ漫画すぎる幼馴染)、AirDropでエロ自撮りを投下してくる地味顔痴女(間違って送ってしまいました。)など、鋭利なフックで関心を誘う。

だが、この奇抜さはバズるためだけのものではない印象を受ける。むしろ頭でっかちな童貞臭さというか*1、エロを描くにおいての言い訳や照れのような感じだ。
童貞にとって、セックスは非日常だ。普通に生きていては起こりえない非常事態である。だから奇抜なシチュエーションをジャンプ台にしなければ、もうセックスするしかないぐらい追い詰められた状況でなければ、セックスを描くことができない。もっとも、エロ漫画はその限られた紙幅で出会いから事後まで描かなければならないので、強引なシチュエーションになりがちだが、石見やそやは特に言い訳がましい。登場人物はだいたい逆ギレしたり開き直りながら行為に及び、その最中にもボケとツッコミの応酬がある。まるでその場にいない誰かに弁解するように。

支離滅裂な供述の数々

とくに『佐藤みやは窃視きたい』はエロというよりはむしろギャグ漫画というべきなくらい、無茶な言い訳の応酬が終始繰り返される。なんか銀魂みたいなノリだ。
komiflo.com

童貞が机上で思考を巡らせ、強引なシチュエーションをひねり出し、力業めいたロジックで誌面にセックスを現出させる。
まるで詰将棋が、実際の差し将棋では起こり得ないような盤面を設定して、それを鮮やかに解くような、そんな神秘さがある。

そしてその虚構のセックスは、読者の性欲を激しく駆り立てながら、同時にどこまでもフィクションであると頭の片隅では実感している。それは、作者にとっては、画稿データを一時保存するとき、レイヤーを操作するとき、フキダシにセリフを書き込むとき。俺たちにとっては、ページをめくるとき、残りのページ数を想像して肉棒を扱く手を緩めるとき、セリフを読もうと目を凝らすとき。セックスとはおよそかけ離れた動作を取るとき、ああ、俺たちは今、滑稽だなと痛いほど実感するのだ。実感しつつ、手を動かす事は止められないでいるのだ。

そんな滑稽さを慰めるように、石見やそやは最後のページを投げやりに描く。必死にオナニーに励んだ果て、賢者タイムで虚無感に陥る読者を庇うように、「え、別に必死になってないですけど?」と一緒にとぼけてくれる。共犯関係めいた奇妙な温もりが、あの雑な最後には宿っているのだ。

そして俺は今、書きたいことをひと通り書いたので、賢者タイムになっている。
延々とエロ漫画の話を続ける自分が滑稽で仕方なくなってきたので、ここはやはり画像の一つでも貼って、雑な感じに終わらせたい。
ここまで律義に読んでくれた人へ、奇妙な温もりを託して…。

*1:石見やそやはTwitterのプロフィールで童貞を自称している。真偽は不明。